(その十七)歴史の謎

八州の里の大原村は、天智天皇の御世に近江京と山城の地を繋げる裏街道の村として開発された。
聖徳太子の父親である用命天皇が崩御したとき、皇太子であった聖徳太子が建立した寂光院がこの地にある。
飛鳥の地にいた聖徳太子がなぜ遠く離れた大原に、亡き父のための寺を建てたのか。
その謎を解く鍵を握っているのが、近江京の主、天智天皇と、山城の主、秦川勝だ。
そして、秦川勝こそ、全国に散らばる秦一族の高祖だ。
秦、畑、羽田、波多、波多野といった「ハタ」が絡む苗字の持ち主は、無論のこと、服部、高橋、佐伯といった一見、まったく関連性のない苗字を有して、秦一族の枝葉に属している一族もいる。
高野山を開いた真言密教の開祖、弘法大師こと佐伯善通も秦一族であり、徳川幕府の公儀隠密であった伊賀忍者の頭領、服部半造も秦一族である。
佐伯善通こと空海が、満濃池(香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防といった当時の最新工法を駆使して工事を成功に導けたのも、秦一族の土木工事の技法を踏襲していたからである。
巷間では、空海は長安に留学した際に、土木工事の技法を学んだと言われているが、仏教の修行僧がそんなことを学ぶわけがないのが常識だけに、こういった伝説は、彼が秦一族であることをひた隠ししたかったためではないだろうか。
更に謎めいているのは、彼ら秦一族を中心に、聖徳太子と天智天皇が絡んでいる点である。
その謎の鍵が、八州の里の大原村にあるとしたら・・・。