(その十六)運命と宿命

福沢綾は、軍造の密命を受け、倫子を榊原温泉病院に連れていくために、わざわざ、京都までやって来たのである。
まさか、それから二十数年後に、彼女らの生んだ娘が同じ運命を辿ることなど、想いもよらなかったはずだが、倫子は運命的なものを感じずにはいられなかったのであり、福沢綾も同じ境地だった。
綾の娘の綾子が倫子の娘の恵美子を、やはり、榊原病院に連れて行ったのは、運命の皮肉と捉えるべきか、宿命の悲劇と哀しむべきか、それは個人の主観に委ねられている。
ただはっきり言えることは、すべての運動事象は円回帰運動しており、同じことを繰り返すということだ。
運動事象の中で自己の人生を考えるか、静止事象の中で自己の一生を考えるかで、考え方は180度変わる。
運命と宿命との相対性は、まさに、運動事象と静止事象の関係にあり、事象の地平線という特異点は、その狭間の点、すなわち、静止点にある。
ドイツに面白い逸話がある。
鶏小屋に一羽の小さな雌の雛がいた。
この雛は頭がよくて、警戒心が強く、そんな自分を誇らしげに思っていた。
ある日、一人の男が鶏小屋に入ってきたので、彼女は一目散に逃げて行った。
男がいなくなったのを見計らって小屋に帰ってきた雛は、とうもろこしの餌が置いてあるのに気がついた。
翌日、また同じ男が、鶏小屋に入ってきたので、再び、彼女は一目散に逃げて行った。
男がいなくなったのを見計らって小屋に帰ってきた雛は、再び、とうもろこしの餌が置いてあるのに気がついた。
何日も同じことが繰り返された。
頭がよくて、警戒心が強く、そんな自分を誇らしげに思っている雌の雛は熟考した。
“人間の男が小屋に入ってくると、その後、必ず、とうもろこしの餌が置かれている”
“何事にも慎重を期さなければならない!”
そして、同じ繰り返しを999回重ねたのを見計らって、理屈っぽい雌の雛は遂に結論を出した。
“人間の男が原因で、とうもろこしの餌が結果だ!”
1000回目の繰り返しが行われた日、雌の雛は、鶏小屋にいつものように入ってきた男に、とうもろこしの餌の礼を言うため近づいた途端、雌の雛の首が刎ねられた。
まさに、この逸話が人生の真実だ。
原因と結果の因果律など、生きることには無用の長物である。
999回同じことが起こっても、1000回目で裏切られるのが、生きることの危険性だ。
倫子は、1000回目の因果律に挑もうとしていた。