(その十六)不安の雲

倫子が輪違屋の玄関の前に立った頃には、日は完全に沈んでいた。
朱雀野遊郭(島原遊郭)の島原大門を潜るには、素人の倫子には余りにも幼く、風景と人間とがまったくそぐわない。
行き交う人々が、倫子をじろじろ見ながら通り過ぎてゆく、そんな様子に異様な空気を察知した輪違屋の手代が、玄関の暖簾を潜って表に出てきた。
「宇都宮倫子はんどすか?」
姓が違っていたが、倫子は肯いた。
「こんなとこたってんで、はよはよ、入りなはれ!」
はじめて聞いた京都訛りに倫子は温かみを感じた。
「女将はん、来はりましたで!」
だだっ広いが薄暗い感じの玄関に尻込みする倫子だったが、奥廊下の暖簾を潜って出てきた女将の増子の表情で、緊張の糸が解れたようだ。
「倫子ちゃんどすか?」
「まあまあ大変どしたな!」
「さあ、お上がり!」
廊下の一番奥にある女将の部屋に連れて行かれた倫子を、一人の女が待ち受けていた。
「福澤はん!」
「この娘が、宇都宮倫子はんどす!」
落ち着いた所為か、生来気強い倫子は、ここで念を押した。
「宇都宮ではありません」
「島田倫子です」
「わたしの父は島田大作で、母の名はハナといいます」
「宇都宮軍造は、わたしの祖父です」
その瞬間(とき)、もの静かにしていた「福澤はん!」が声を発した。
「わたくしは、島田倫子だということを承知していましたよ」
「わたくしは、三重の中川の榊原温泉の福澤綾と申します」
福澤綾が言うや否や、立ち上がって、支度をはじめた。
「さあ、倫子さん、行きましょう!」
突然の話に呆然としている倫子に優しい微笑を投げかけながら、福澤綾は、増子に合図を送った。
『一体何処に行くというんだろう!?』
倫子に大きな不安の雲がかかりはじめていた。