(その十五)悟りの一瞥

ひとりの男とひとりの男性。
下鴨神社の「糺すの森」での第二ラウンドも訳のわからないままでの完全敗北であり、しかも、最後の無様な姿を選りに選って恵美子に見られてしまった聡にも、変身の時節がやってきた。
高校三年生の夏に恵美子の沐浴姿を観て以来、聡は白昼夢を観ていた。
4年間という上映時間の映画を観ていたのである。
映画が終われば、映画の上映時間がわかる。
映画が終わらない限り、映画の上映時間はわからない。
死を知った人間が、自己の死期を知らないのは、上映時間を知らないからだが、映画の上映時間は端からわかっている。
何故なら、映画は再生したものだからだ。
人間の一生は、再生された映画に他ならない。
だが未来という光景はどんなものか鑑賞者にはわからない。
人生とは映画製作者のいない映画の鑑賞なのである。
天地創造主の神などいるわけがない。
たとえいたにしても、三流の映画監督だ。
矛盾だらけのシナリオでは一流の映画は製作できない。
聡は幸運だった。
たった4年間という上映時間の映画で、自己の一生が再生映画に過ぎなかったことを知ることができたのである。
白昼夢を観ることは、刹那的に考えれば、甘く酸っぱい哀しい映画という罪的側面を持つが、悟りの一瞥を与えてくれる功的側面を持つことを人間はまだ理解していない。
目が覚めている間のいわゆる現実が好くて、白昼夢が悪いと思い込んでいる未熟な知性の為せる業だ。
宗教がセックスを罪だと思い込んでいるのと同じである。
人間だけが死を知ったということは、人間だけが自ら死ねる権利を得たということを理解していないからだ。
人間だけがセックスを知ったということは、人間だけが愛する権利を得たということを理解していないからだ。
白昼夢がセックスに関わっているのがその証明である。
セックスが悟りの一瞥を与えてくれている証明である。
白昼夢が悟りの一瞥を与えてくれている証明である。