(その十五)独自の哲学観

自然社会で生きている生きものはみんな潜在能力を完全に発揮している。
潜在能力を完全に発揮している生きものなら、一回の交尾だけで完璧に妊娠することができるから、メスはオスの情けを受け入れたことがその瞬間にわかるし、オスはメスに情けを受け入れられたことがその瞬間にわかるのは当然なのだ。
それが、交尾の意味なのである。
ところが、人間だけは交尾、即、妊娠とは限らない。
人間だけに潜在能力の欠落が起こったのである。
知性を得たことの反対給付に他ならない。
恵美子の頭脳速度は女の中では極めて速い方だ。
『情けを与えた瞬間に受け入れられたかどうかわかるんやったら、情けを与えられた瞬間に受け入れたかどうかわかってもええはずやのに、うちはわかれへんかった・・・』
子供を産む能力は受容能力のことである。
女が子供を産むようになったのは、女の方が男の方よりも受容能力が平均的に高かったからだ。
藤堂頼賢が感慨深げに呟いた。
「俺の愛情の方が、お前の愛情よりも深かったからや!」
恵美子にとっては、まさに晴天の霹靂の言葉を投げられたのである。
彼女は今まで逆のことを思ってきた。
自分の彼に対する想いは、彼の自分に対する想いなど比ではないと信じて疑わなかった。
「想い」の不均衡が愛憎の片面しか発露しない最大の原因なのである。
平易な表現を借りれば、男女の間の愛情が愛憎以外の何者でもない証明になっているにも拘わらず、凝りもせず人間のオスとメスは結婚という愚行を繰り返す。
結婚するまでは愛憎の均衡が保たれているのに、結婚することによってその均衡は一気に崩れ、憎しみだけの関係になる。
それが結婚という仕組みの正体なのだ。
どんなに愛し合っていても、結婚したら最後台無しになる。
藤堂頼賢の優しい眼差しが、そのことを証明していた。
『この人が、こんな優しい眼差しを見せたのははじめてやわ!』
恵美子の彼に対する憎しみが一気に消滅していった。
『ああ!人間の証明が、こんな形で為されるなんて・・・・』
想いも寄らない展開にも拘わらず、動転するどころか、感動する自分に気づくのだった。
人間は誰でも自分独りだけの世界に生きざるを得ないが、真の愛情を感じ取った瞬間(とき)、愛する者と同じ世界を共有する喜びを得る。
愛し合うとはそういう意味だ。
抱擁するとはそういう意味だ。
情けを交わすとはそういう意味だ。
その瞬間(とき)、人間は至福の境地になれる。
それが、人間の証明だ。