(その十五)男と女

人間が蝶々になった夢を観るということは、知性が夢の中では退化したことを意味する。
蝶々が人間になった夢を観るということは、知性が夢の中では進化したことを意味する。
そうすると、
蝶々が人間になった現実を観るということは、知性が現実の中では進化したことを意味する。
人間が蝶々になった現実を観るということは、知性が現実の中では退化したことを意味する。
この事実を人間は一体どのように捉えているのだろうか?
自分たちを万物の霊長と自画自賛している人間は、自分たちを一体何様と思っているのだろうか?
自然社会の生きものを畜生と蔑んでいる人間は、自分たちを一体何様と思っているのだろうか?
オスとメス。
男と女。
この定義に違いだけで、人間はすべてのことを逆さまに捉える錯覚生きものに成り下がってしまった。
藤堂頼賢が、鹿ヶ谷哲夫から学んだ最大のテーマがこの点にあり、ある大事な決断の時を、恵美子に任せたことがある。
『藤堂はんは、本当はどっち望んではるんやろ?』
自分の本当の気持ちの通りにすればいいと藤堂頼賢に言われながら、相手の気持ちが気になる。
それが健気な女心なのか。
それとも女の健かさなのか。
それとも男の強気さなのか。
それとも男の姑息さなのか。
それとも男と女の所詮は駆け引きなのか。
真実は一体何処にあるのだろうか。
事実ならすぐにわかるが、真実はすぐにはわからない。
事実は、『今、ここ』の空間のことだから、すぐにわかる。
真実は、『今、ここ』が過去・現在・未来にまで及んだ暁の時空間のことだから、すぐにはわからない。
男は、過去・現在・未来に想いを馳せて生きる人間だから、真実を知りたがる。
女は、『今、ここ』を生きる人間だから、事実を知りたがる。
だから、女は相手の気持ちを計るのだ。
だが、男は相手の気持ちを推し測る。
何処まで行っても男と女は平行線だ。
何処まで行っても男と女の間には埋められない深淵がある。
恵美子がいくら藤堂頼賢の気持ちを計っても、推し測ることはできない。
藤堂頼賢はそのことをわかっているから、恵美子の気持ちを計ることなどしないのだ。
「俺の子供である前に、お前の子供やから、お前の決めた通りにしたらええ!」
この言葉を吐く人間の真意を推し測ることはできても、気持ちを計ることは絶対に不可能である。
男の気持ちは女には推し測れないし、女の気持ちは男には計れない。
畢竟(つまるところ)、永遠に平行線である。
男と女はお互いを見つめ合ってそれぞれの平行線上を歩くべきであろう。
畢竟(つまるところ)、己の道を信じて生きるしかない。
“自分は一体何者なのか?”
“自分は一体何をしたいのか?”
人生の最大の課題がここにある。
藤堂頼賢は、そのことを、恵美子に問うたのである。
今度は、恵美子が藤堂頼賢に問う番だ。