(その十四)区別と差別

差別は人間社会だけにあるものだ。
光と陰の問題と同じである。
陰とは暗闇のことだ。
従って、光と暗闇の問題と考えればことは簡単に理解できる。
我々人類は知性を得たことによって、知力を新しい武器にして地上最弱の生きものから地上最強の生きものに変身することができたが、その反対給付として「錯覚」という大きな負の遺産を抱えることになった。
我々の身近な中で最もわかり易い錯覚は、健康と病気に関するものだ。
人間が錯覚の生きものであることを見事に証明している。
我々は健康を欲し、病気を忌み嫌って生きているが、これは錯覚以外の何者でもない。
我々が追い求めている健康って何処にもない。
健康とは、病気の無い状態という考え方であって、病気の無い状態なんて生きている限りあり得ない。
病気の無い状態を求めるなら死ぬしかない。
ところが、我々人間が死ぬことを怖がっているのは、自己矛盾も甚だしい。
二元論の本質がここある。
貧富二元論についても同じだ。
健康・病気二元論を貧富二元論に当て嵌れば、貧乏が実在するもので、富は貧乏の不在概念に過ぎないことになる。
そうすると、我々人間が金の亡者になってお金を追い求めることは、病気の無い状態という健康を追い求めることと同じことになって、そんなことは不可能なことだ。それなのに、我々人間はお金を何故追い求めるのだろうか。
人間だけに『蓄積の概念』があるからだ。
自然社会の生きものには『蓄積の概念』は一切ない。
自然社会、つまり、宇宙の法則では蓄積の無い状態が常態なのである。
人間社会の言葉で言えば、貧乏が常態なのである。
逆に言えば、蓄積のある状態は、自然社会を崩壊させる危険を孕んでいる。
人間社会の言葉で言えば、お金持ちの状態は社会全体を崩壊させる危険状態であるということになる。
まさに、貧乏が実在で、富は貧乏の不在概念に過ぎないことを、自然社会は示唆している。
自然社会には区別が一切ない。
人間社会には差別がある。