(その十四)覆水盆に返らず

古代、中世、近代、そして、現代と続いてきた文明社会は錯覚社会であったわけだが、文明が進めば進むほど錯覚は酷くなる。
まさに、始まったところに戻ってきたのである。
現代社会人の錯覚は極みに来てしまっている、と鹿ヶ谷哲夫は断定する。
「伏見の光と陰はまさしく錯覚の極みが織り成す映像だ」
「映像をどうこうしようと思っても無駄な労力に過ぎない」
鹿ヶ谷哲夫は藤堂頼賢を諭している、と恵美子は直感した。
「仇撃ちが新たな仇撃ちを呼び終わりのないイタチごっこになるように、革命は新たな革命を呼び、粛清は新たな粛清を呼ぶ。個人の目覚め・気づきの連鎖反応しか道はない」
「組織の時代はもはや終わった。これからは個人の時代だ」
「国家のない社会、社会のない社会、会社のない社会、家族のない社会が、個人の時代の社会だ」
まさに、始まったところに戻ってきたのである。
“覆水盆に返らず”の真の意味がここにあった。