(その十四)迷いの心の中

男と女が心中に際した瞬間(とき)、特別な心境に入ることがある。
先ず、男と女の境界線が外れる。
男と女は人間という一つの枠の中で、男と女の横軸の境界線がある一方、先天的な境界線と後天的な境界線が縦軸の中にある。
縦軸と横軸は直角に交差している。
つまり、十字架を成している。
イエス・キリストの十字架は、人間の中での男と女の宿命論と運命論が交差したものを象徴していると云う。
イエスという救世主は、十字架刑に掛かったからこそ、イエス・キリストなのである。
まさに、キリストとは古代ギリシャ語で救世主と言われる所以だ。
まさに、救世主イエスだ。
マグダラのマリアと、イエスの母、聖母マリアも十字架を成している。
マグダラのマリアは後天的な縦軸の象徴であり、聖母マリアは先天的な縦軸の象徴になっている。
ところが、男と女の横軸の境界線では、マグダラのマリアは娼婦であり、聖母マリアは文字通り聖母と正反対のベクトルを指している。
そして、大工ヨセフの子としてのイエスは横軸の境界線でマグダラのマリアと一線を画しているから、夫婦の関係であったのかもしれないと推論されるのだ。
だが、レオナルド・ダビンチが、「最後の晩餐」でイエスと十二人の弟子たちの間に配偶者としてのマリアを裏で描いた意図は、まさに、人間という一つの枠の中での男と女を、横軸の境界線として表現する一方で、先天的な境界線と後天的な境界線が運命論の縦軸として二人のマリアを表現した。
だが、藤堂頼賢には恵美子というマグダラのマリアという存在はいたが、聖母マリアの象徴がいなかった。
鹿ヶ谷哲夫の娘、澄江が聖母マリアの象徴ではないかと一時期思ったことがあるが、未だ確たる信憑性がない。
『ここで二の足を踏むか否か・・・』
藤堂頼賢には珍しく、心の中に迷いが生じていた。