(その十四)適えてくれる命

一生のうちで、心中しようと思える異性に出逢えることは、極めて稀なことであり、これほど幸運なことはないが、こういった偶然性だけでは、その実現は百のうち一つもない。
必然性も絶対不可欠だからだ。
心中に至るまでの過程が、およそ、不可能に近いくらい、可能性が低いからであり、その可能性を高めるための尽力は並大抵のものでない。
努力だけではおよそ無理だから、尽力なのである。
人間社会にとって、努力という言葉は最大の賛辞なのだが、尽力という言葉は、努力を遥に凌ぐエネルギーが要る。
努力というエネルギーは一方向のエネルギーだが、尽力というエネルギーは両方向のエネルギーだからだ。
近松門左衛門の心中物語の主人公たちは、心中に至るまでの過程が、偶然性の中で培われている点において、少々、物足りない。
春を売る女と春を買う男の世界で展開される話が、心中に至る偶然性の過程という点において、少々、物足りない。
藤堂頼賢と恵美子の間には、そういった偶然性は破片もなく、ふたりだけの想いから発生した必然性の過程であったから、余計、ふたりの心中は、人間の究極のテーマに迫真するものとなる。
「うちは、藤堂はんとはじめて逢うた時から、命を預けてます」
「そやから、おなかの赤ちゃんも犠牲にしたんどす!」
目の前に咲きほこり、あなたに適えてくれる命を、恵美子は藤堂頼賢に任せた。