(その十四)ほんまの話

女の感激も束の間、福澤綾子のいる榊原温泉に向かう列車に乗った恵美子の忸怩たる想いはいかほどのものであったか、母親の倫子ですら、推し量ることはできなかった。
それほどに、藤堂頼賢の想像を超える人格が、恵美子の心身をすっぽり覆っていたのである。
だが、過程は如何に想像を絶する苦痛であっても、結果がすべてを清算してくれる。
人生最後の出来事である死を怖れて生きる人が、幸せな人生を送れる訳がない。
財産を持てば持つほど、死を怖れる人生が待っている。
それでも、人は、財産を持ちたがる。
権力を持てば持つほど、死を怖れる人生が待っている。
それでも、人は、権力を持ちたがる。
この世的名誉を得れば得るほど、死を怖れる人生が待っている。
それでも、人は、この世的名誉を得たがる。
その結果、死がいつ襲ってくるかと気が気でない人生を送る。
まさに、過程が如何に想像を絶する苦痛であっても、結果がすべてを清算してくれる。
「春若!」
「お前の命を、俺にくれ!」
いつかこの言葉を云われる予感がしていた恵美子だったが、その道のりは長くもあり、また、束の間でもあった。
澄江の言った言葉が、まさに、自分の身に実現したと、恵美子は思った。
「大事なのは、そのお子を女が産んで育てる気持ちがあるかどうかだけで・・・男の気持ちなんか関係おまへん!」
暫しの間の沈黙を自ら打ち破って、澄江は話はじめた。
「うちは、その男はんが好きなんどす!
その人の子供が欲しいんとちがうんどす!」
単純な表現だが、噛めば噛むほど含蓄がある。
「女は好きな男はんのお子を産みたがるてよう言わはるけど、うちはそうは思わへんかった・・・・そやかて、好きで結婚した二人の間に赤ちゃんが産まれた後は、子育てや生活に追われて、二人の間の感情はどんどん冷めていく夫婦がほとんどやおへんか?」
結婚生活を経験していない恵美子には、澄江の話は実感が湧かなかったが、世間ではそんな夫婦が圧倒的に多いことも確かだと思った。
恋愛と結婚とは違うというだけでは済まない。
恋愛と結婚は二律背反するものなのだ。
ところが、男と女は、恋愛が結婚に繋がるものだと信じている。
ところが、男と女は、恋愛が子供を産むことに繋がるものだと信じている。
「オス社会」が捏造した、まったく馬鹿げた錯覚だ。
恋愛を続けたいなら、結婚に繋げたら絶対に駄目である。
況してや、恋愛を続けたいなら、子供を産んだら絶対に駄目である。
結婚と子供を産むことは、恋愛に皹を入れることは火を見るよりも明らかである。
一体いつの頃から、こんな馬鹿げた錯覚が罷り通るようになったのだろうか。
子供を産むのは、子孫保存本能欲が為せる業である。
それ以外の何の動機も目的もない。
況や、恋愛感情など、「考える力」を得た人間社会だけにある、一種の癖、習慣のようなものだ。
自然社会に愛など存在しない。
愛とは「考え」という概念に過ぎない。
いわば、エゴが愛を育むのだ。
子孫保存本能欲を満たす子供を産む行為は、愛を阻害する行為だ。
愛を育む行為は、子供を産む子孫保存本能欲を阻害する行為だ。
「愛」とはエゴが生み出した最大の産物である。
二人の「愛」というエゴが正面から衝突した瞬間(とき)、奇跡が起こる。
二人のエゴが対消滅して、エゴを超えた一つの意識となる。
そこには、恋も愛もない。
ただ、二つの物体が一体化した意識だけが残る。
そして、男と女の究極の姿が現れる。
澄江が父、哲夫から学んだことだ。
恵美子は、澄江の気持ちが漠然としたものであるがわかったような気が、その瞬間(とき)した。
「澄江はんは、その男はんだけとの人生を生きたかったんどすな・・・」
突然、瞼に浮かんできた藤堂頼賢の姿を思い出しながら、恵美子は納得するのだった。
『うちも、藤堂はんと二人きりで、誰にも邪魔されない人生を生きたいわ!・・・
子供も邪魔以外なんでもないわ!』
『ほんまや!』
『これが、ほんまの話やわ!』