(その十四)葛藤から自殺へ

二十二年間という恵美子の短い人生劇場の中で、祇園という花柳界に身を置く誇りと責任感が彼女に新しい劇(ドラマ)を生みださせた。
映画でも舞台でも場面が変わるのは、劇(ドラマ)の節目に差し掛かった時か、時空を超えたタイムトンネルに突入する場合と相場が決まっている。
夢が映画とまったく同じメカニズムでできている気づきのヒントが、カット場面に隠されている。
時空を超えたタイムトンネルに昼間目が覚めている場面で気づくのはほぼ不可能だが、夜間夢を観ている場面では夜常茶飯事だ。
会ったこともない人間と会ったことのある人間がコンテンポラリーに出会うことが可能なのは夢の中だけである。
過ぎ去った過去の出来事を映画の中でフラッシュ・バックするカット・バックが可能なら、未だ来ぬ未来の出来事をフラッシュ・フォワードするカット・フォワードも可能なのが夢の中だ。
恵美子の胸の中で葛藤が渦巻きはじめた。
二人の自分が胸の中で相克して、摩擦熱で炎上しそうになる。
自我が炎上してはじめてホンモノの自分がその姿を現わす。
三島由起夫が描いた『金閣寺』には、そんな複数の自分が別人として登場してくる。炎上した金閣寺を夕佳亭から眺めていた放火犯、林養賢は吃音というハンディキャップを左斜に構え、そんな林養賢を軽蔑しながら、弄んで用済みの女を彼に与えていた柏木は内反足というハンディキャップを右斜に構える。
二人の障害者が、主人公の胸の中で相克した結果、摩擦熱で物質の美の頂点の金閣寺を餌食にする。
それはまるで、三島由起夫自身であり、更に、二人の障害者を自分事のように眺めていた挙げ句、自殺する鶴川に自己をラップさせ、最後に割腹自殺したのは、まさしく、自己客観視のアンチテーゼとしての自己主観視という完璧なまでの錯覚であった。
三島由起夫が自己の錯覚を理解していたかどうかは今ではわからないが、錯覚であっても、完璧な錯覚であったことは確かだ。
三島由起夫は、中途半端な覚醒よりも、完璧な錯覚の方を選択したのだろう。
それは、一般凡夫の中途半端な錯覚に対する強烈な皮肉だったのだろう。
その最後の仕上げが自衛隊での割腹自殺だったわけだ。