(その十三)継体革命

猿は鬼門を避ける生きものの象徴である。
まさに、徳川家康は裏鬼門の象徴だったのだ。
「鬼門」という言葉のルーツは、古代中国の書物「山海経」にある物語が元になっており、北西の方向を「天門」、南西の方向を「入門」、南東の方向を「風門」としたのに対し、北東の方向を「鬼門」とした。
北東の方向にある鬼門とは、北東、つまり、(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことで、陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としていて、他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。
鬼門とは反対の南西(坤 =ひつじさる)の方角を裏鬼門と言い、この方角も忌み嫌われる。
江戸時代には、鬼門の方向への造作・移徙(わたまし:貴人の引越)は忌むべきとされ、人々は家の鬼門の方角に桃の木を植えたり、鬼門とは反対の方角が申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした。
京都御所の北東角には屋根裏に木彫りの猿が鎮座し、鬼門を封じていて、猿ヶ辻と呼ばれる。
京都は日本の正式の帝都であるが、東京は日本の正式の帝都ではない。
東京奠都を首都の問題と絡めて論じられることもあるが、現在に至るまで法令上「首都」の定義・規定がなされておらず、日本における従来の「みやこ」(都・京)と「首都」の関係は定かでない。
歴史には裏がある。
日本の歴史もご多聞に洩れず、表と裏がある。
特に近代日本の誕生は、裏の歴史が主役であった。
日本の近代社会のうねりは東京から起こったのではなく、京都から起こったのであり、西欧社会なら、近代化した国の首都は近代化のうねりがはじまった地になるのに、日本という国は近代化以前の首都を近代化した以後の首都にもするという変わった国である。
江戸時代という近世の日本社会の首都は決して京都でなく、明らかに江戸、つまり、東京であった。
明治維新とは近代化革命であり、近世の江戸社会の否定からはじまったにも拘わらず、近代社会になった後も江戸が首都であり続けたのは一体何故なのか。
常識ではあり得ない。
中国の王朝は易姓革命によって誕生するのが何千年もの歴史の中での慣習だから、王朝毎に首都が変わってきた。
明治維新は明らかに徳川王朝に対する易姓革命だったにも拘わらず、徳川王朝の首都がそのまま踏襲されたのは一体何故なのか。
明治維新は徳川王朝から天皇家への易姓革命だったはずで、天皇家の首都は京都であったのに、何故徳川王朝の首都に天皇は敢えて移ったのだろうか、まったく合点がいかない。
天皇家の中での易姓革命が為されていたとするなら、天皇家の首都である京都を否定することは肯ける。
徳川家康は東照大権現と呼ばれるようになったが、これは1617年(元和3年)に、後水尾天皇から贈られた勅謐号である。
東照大権現とは、日本の皇祖神、天照大神に対抗した神のことであり、天照大神が西を照らした神なら、徳川家康は東を照らした神というわけである。
ではなぜ、徳川家康が日本の皇祖神、天照大神に対抗しなければならないのか?
嘗て、日本の皇祖神、天照大神に対抗した天皇がいた。
第二十六代継体天皇だ。
国の形体、つまり、国体を換えた天皇だから継体というわけだ。
明治維新とは易姓革命ではなく継体革命だったのである。
その象徴が猿だ。