(その十三)明治維新(Restoration)の意味

明治維新は易姓革命だったのか?
徳川家康のことが東照大権現と呼ばれるようになったのは、1617年(元和3年)に、後水尾天皇から贈られた勅謐号からである。
東照大権現とは、日本の皇祖神、天照大神に対抗した神のことであり、天照大神が西を照らした神なら、徳川家康は東を照らした神というわけである。
ではなぜ、徳川家康が日本の皇祖神、天照大神に対抗しなければならないのか?
しかも、当時の後水尾天皇が、そのことに大きく関与しているのである。
後水尾天皇とは、いわずと知れた鹿ヶ谷哲夫の邸のある御所の段町にある、霊鑑寺という謎の門跡の主人だ。
後水尾天皇は徳川三代将軍、家光の妹を皇后にした天皇であり、自分の娘、すなわち、皇女を開基として創建した寺で、代々、皇女が住職を務めたので、谷御所、鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれている。
まさに、易姓革命の攻守交代ゆかりの地が御所の段町なのだ。
となりの鹿ヶ谷・法然町には六十三代冷泉天皇の御陵、桜本陵があり、銀閣寺寄りには五十七代陽成天皇陵があり、それらが、十四把一絡げの「月輪陵」、「後月輪陵」がある天皇家の菩提所の泉涌寺へと繋がっている。
明治維新とは近代化革命であり、近世の江戸社会の否定からはじまったにも拘わらず、近代社会になった後も江戸が首都であり続けたのは一体何故なのか。
常識ではあり得ない。
中国の王朝は易姓革命によって誕生するのが何千年もの歴史の中での慣習だから、王朝毎に首都が変わってきた。
明治維新は明らかに徳川王朝に対する易姓革命だったにも拘わらず、徳川王朝の首都がそのまま踏襲されたのは一体何故なのか。
明治維新は徳川王朝から天皇家への易姓革命だったはずで、天皇家の首都は京都であったのに、何故徳川王朝の首都に天皇は敢えて移ったのだろうか、まったく合点がいかない。
「明治維新が明治革命と呼ばれない理由(わけ)は、徳川王朝から天皇家への易姓革命ではなく、天皇家の内紛劇に過ぎなかったからだ」
鹿ヶ谷哲夫は更に驚くべき話を展開するのだった。
明治維新とはまさに、Restoration(王政復古)だったのである。
では、誰から誰へのRestoration(王政復古)だったのか?