(その十三)歴史の分岐点

「お前は盗人の石川五右衛門の血を引いているだけだ!それもいい加減な血だ!」
鹿ヶ谷哲夫が藤堂頼賢に言っていることが、その時の恵美子にはとうてい推量できなかったが、藤堂頼賢が自分のために生命を張ってくれたことを知った時、はじめてわかった。
豊臣秀吉と石川五右衛門、石川五右衛門と徳川家康、徳川家康と服部半蔵、この時の流れの中で、日本の国は大きく変わっていった。
表の歴史に対して、裏の歴史には、必ず、人非人が関わっている。
豊臣秀吉が名古屋中村の百姓の出なら、徳川家康の出自は更に複雑だ。
7歳で仏門に入った国松(徳川家康)は、9歳で破門され、駿府をうろついている間に又右衛門という人さらいに銭五貫で酒井常光坊という願人(がんにん)坊主(肉食妻帯の修験者)に売り飛ばされた。
松平元康が今川義元に人質として駿府にいた当時の話の真相だ。
願人(がんにん)は、加持祈祷を施すと共に、隠密の役も承り、諸国徘徊の砌(みぎり)は、その動静を偵察する勤めを持つ、いわゆる隠目付もする。
徳川幕府に目付け、大目付けという、いわゆる、CIA長官のような役を設置した所以がここからくる。
華陽院(静岡市日吉町(現在の鷹匠2丁目))の境内扁額には、徳川家康生い立ち史跡と今でもぬけぬけと書かれてある。
豊臣秀吉の出自が百姓なら、徳川家康のそれは願人(がんにん)、ササラ者と更に低いのである。
家康が天下を奪ったあと、巧みに間諜を行使し、危機を未発に察し、禍を未然に防ぎ得たのも、彼の裏の子孫が各藩の内情に暗熟して、隠し目付けを施したからであり、そのルーツは、家康自身が願人(がんにん)、ササラ者と通じていたからだ。
鹿ヶ谷哲夫の話が、日本の真実の歴史の暗黒の海底にまで及び、海底では、恵美子の父親である畑正三と繋がっていたことを知ったのである。
まさに、恵美子の人生の分岐点と、日本の歴史の分岐点が交差する瞬間が迫っており、そこに、鹿ヶ谷哲夫と藤堂頼賢が深く関わっていくことになるのである。