(その十三)孝明天皇の死

慶応2年(1866年)12月25日。
第121代孝明天皇は36才の若さで崩御した。
12月12日に発病し、当初は風邪だと思われていたが、その後、顔に痘瘡による吹き出物が出、いわゆる天然痘であることが判明した。
しかし、12月19日には回復に向かい、吹き出物のカサブタが乾きはじめ、23日、24日と「ますますご機嫌能(うるわし)くなられ候(そうろう)」となっていたのに、24日の夕方から容態が急変した。
それまでおさまっていた発熱、嘔吐などの症状が再発、体内に残っていた痘瘡の毒がぶりかえしためとの診断で、「解毒飲(げどくいん)」を処方したが、25日に急死したのである。
「中山忠能(ただやす)日記」の12月28日の条(くだり)で、天皇の死の秘密を漏らしている。
「二五日後は九穴より御脱血、実に以って恐れ入り候御容体」という悲惨な状態で、天皇はそのまま苦悶死したというのである。
朝廷では、痘瘡治癒を祈らせるために、天台宗の名刹・護浄院などから複数の僧侶を宮中に呼び、加持祈祷を行わせたが、その中に、誓願寺の上乗坊という僧侶が、その様子を日記に残していた。
昭和17年、京都大学教授の赤松俊秀、および、奈良本辰也らが、真言宗の誓願寺の調査中、塔中の大雲殿でこの日記を発見した。
日記の慶応2年12月25日の条には、孝明天皇毒殺を裏付けるような驚くべき記述があった。
「天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息で、血をはき、また脱血・・・」と書かれていたのである。
内容の異様さに驚いた奈良本辰也は、当時の日本史学会のボスだった京大教授の西田直二郎に日記の発表をすすめた。
ところが、西田教授は、なぜか奈良本を叱りつけ、公表は見送られた。
その後、誓願寺は廃寺となり、日記は行方不明となった。
更に、戦前の医学史の大家である佐伯理一郎博士が、昭和15年7月に大阪の学士会倶楽部で開かれた日本医学史学界関西支部大会で、孝明天皇の典医の一人であった伊良子光尊の日記をとりあげた。
「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪をして天皇に一服を盛らした」と発表した。
そのとき、佐伯理一郎博士はこうもつけ加えた。
「自分はある事情で、洛東鹿ヶ谷の比丘尼御所の霊鑑寺の尼僧となった当の女性から、直接その真相を聞いたから、間違いない」と断定したのである。