(その十二)日本の近代化

日本の博覧会のルーツが京都博覧会である。
不況からはじまった昭和は、金融恐慌、生活難と暗い始まりであったが、1928年(昭和3年)、天皇ご即位奉祝を記念する博覧会は全国各地で開催され“博覧会ブーム”を巻き起こした。
1931年(昭和6年)。
満州事変が勃発。
1941年(昭和16年)。
太平洋戦争へと突入、やがて戦局は激化、博覧会も軍部による軍事啓蒙に利用されて、終戦ギリギリの昭和18年まで開かれた。
明治以来の悲願であった日本万国博覧会も、準備を完了しながら1940年(昭和15年)の段階で、“幻の万国博”となってしまった。
敗戦の虚脱状態からの戦後は、物資の欠乏で衣食住すべてに混乱を起こし、一時は復興の兆しもあまり見られなかったが、1951年(昭和26年)の講和条約締結を機に、漸く世情も落ち着き出し、生活も安定化に進み、博覧会も講和、復興、平和を冠した博覧会が開かれるようになった。
日本のアメリカ化が進展し、マスコミの発達、更に1955年(昭和30年)後半からの高度経済成長期を迎え、博覧会も珍しいものや新しい技術を見せるだけでは人々は満足しなくなり、会場全体の演出や展示に工夫が凝らされ、ショー的な要素が歓迎されるようになった。
海外でも第2次大戦をはさむ長い空白期間ののち、1958年(昭和33年)ベルギーでブリュッセル万国博覧会が、戦後はじめて開かれ映像が登場し、1964年(昭和39年)〜1965(昭和40年)のニューヨーク世界博覧会では新型の映像も現れ、1967年(昭和42年)のモントリオール万国博覧会で映像展示が人気を集めた。そして、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会でも映像が展示の主流として受け継がれた。
以後、1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会を経て、1981年(昭和56年)地方博としては国際博級の神戸ポートアイランド博(ポートピア’81)が開かれ、地方博のイメージを一新し、その後の地方博のモデルとなった。国際博として沖縄国際海洋博のあとを受けた、1985年(昭和60年)の科学技術博覧会(つくば科学万博)でも映像展示がピークに達し、映像万博とも言われた。
日本の近代化は博覧会と共にあり、その元祖が京都博覧会だったのである。