(その十二)不条理な科学

科学はどうして誕生したのか。
宗教に対するアンチテーゼからだ。
宗教があまりにも主観の世界ゆえ、その反動で客観の世界を志向した結果誕生したのが科学である。
中世から近代へ幕開けした最大のテーマだった。
近代社会幕開けの三種の神器であるルネッサンス、宗教改革、産業革命は、まさに主観性の追求から客観性への追求への変化・変貌であったわけだ。
中世の主観性の追求から近代の客観性の追求。
科学を理解するためには、宗教を理解しなければならない。
客観性を理解するためには、主観性を理解しなければならない。
主観性とは、見えないものを如何に捉えるかの問題だ。
客観性とは、見えるものを如何に捉えるかの問題だ。
見るものの問題が主観性であり、見られるものの問題が客観性である。
自分の問題が主観性であり、他者の問題が客観性である。
自分は見るものであり、見られるものではない。
自分は見えないものであり、見えるものは自分ではない。
知らないものが自分であり、知っているものは自分ではない。
自分が唯一知っていることは、自分は何も知らないことだけだ。
主観性とは、客観性の不在概念に過ぎない。
科学が宗教のアンチテーゼから誕生した所以がここにある。
宗教と科学はしょせん同じ穴の狢に過ぎない。
このことを科学者は気づいていない。
宗教者は音痴であることを自覚している偽悪者に他ならない。
科学者は音痴であることを自覚していない偽善者に他ならない。
科学者の方が宗教者より性質が悪い所以がここにある。
死を知るということは、未だ来ぬ未来の出来事は未知なはずなのに、未だ来ぬ未来の出来事が既知になる。
しかも、死を知るということは、未だ来ぬ未来の最後の出来事が既知になることである。
死を知るということは、人間の一生は最後には明日がなくなるということを事前に知るということである。
死を知った人間の一生は最後には明日がなくなるということを事前に知ったから、自殺することができるのである。
この事実は、実は、革命的な出来事であることを、死を知った人間がわかっていない。
何故そうなったのか?
自殺願望は人間の本質的欲望、つまり、人間だけが持ち合わせている本能欲だから、食べる、セックスをする欲望を止めることができないのと同じぐらい不可能なことだ。
食べることの欲望には、人間は目覚めているし、セックスをすることの欲望は、人間は教えられなくとも自然に覚えるものなのに、自殺することの欲望だけは、人間はいつの頃からか何者かによって抑圧されてきた。
宗教がその犯人の一人であることは確かだ。
科学も多分その犯人の一人であることは確かだ。
人間は潜在能力を100%発揮できない生きものだと言われている。
脳の神経細胞が100%働いていないからだと阿呆な脳科学者たちが言っているが、そもそも脳科学者などというカテゴリーなどあるわけがない。
他の生きものたちは潜在能力を100%発揮できているから、地震を事前に察知できる。
察知であって、予知ではないところがミソだ。
彼らの五感感知能力が優れているから、早く察知でき難を逃れることができるのであって、そのことを潜在能力が100%発揮できていると言う。
死を知らない他の生きものたちが地震を事前に察知できるのに、なぜ、未だ来ぬ未来の最後の出来事を事前に知ることができる人間は、地震を事前に察知できないのか?
この事実は極めて重大なことだ。
死を知ることができ、そして、自殺することができる人間とは、実は途轍もないほどの能力を具えているのである。
だからある意味で、人間は地上の覇者になり得たのだ。
ところが、潜在能力をまるで発揮できていないのも事実だ。
その原因は、死を知ったことが恩恵であり、更に、自殺できることはその恩恵を享受できる特権であることを自覚していない点にある。
宗教や科学が如何に罪多きものであるかの証明である。