(その十二)不条理な神

人類が最初のボタンの掛け間違いを何故起こしてしまったのか。
実在するものを否定的な言葉にし、実在するものの不在概念を肯定的な言葉にした張本人は宗教だった。
最初のボタンの掛け間違いがここで起こった。
実在する全体、絶対、静止、本質、一元であるものを否定的な言葉にした。
「死」、「悪」、「弱」、「愚」、「貧」、「不幸」、「地獄」、「病気」、「悪魔」・・・といったものがそうだ。
実在する全体に対する部分、絶対に対する相対、静止に対する運動、本質に対する現象(映像)、一元に対する二元であるものを肯定的な言葉にした。
「生」、「善」、「強」、「賢」、「金持ち」、「幸福」、「天国」、「健康」、「神」といったものがそうだ。
実在する全体、絶対、静止、本質、一元であるものを肯定的な言葉にし、実在する全体に対する部分、絶対に対する相対、静止に対する運動、本質に対する現象(映像)、一元に対する二元であるものを否定的な言葉にすれば、ボタンの掛け間違いは起こらなかった。
宗教の存在根拠は、「完全不可能」、つまり、「100%不可能」なことの主張にある。
宗教は常に100%絶対だと言わなければ成立しないのであって、“100%信じなさい!”と言わずに、“99%信じなさい!”と言えば、誰も信者になってくれないからだ。
ここが宗教の罠に外ならない。
「完全可能」、「100%可能」な話なら宗教は要らない。
実在する全体、絶対、静止、本質、一元であるものを肯定的な言葉にし、実在する全体に対する部分、絶対に対する相対、静止に対する運動、本質に対する現象(映像)、一元に対する二元であるものを否定的な言葉にすれば、「在るものねだり」の「完全可能」、「100%可能」な話になって、宗教は要らない。
実在する全体、絶対、静止、本質、一元であるものを否定的な言葉にし、実在する全体に対する部分、絶対に対する相対、静止に対する運動、本質に対する現象(映像)、一元に対する二元であるものを肯定的な言葉にすれば、「無いものねだり」の「完全不可能」、「100%不可能」な話になって、ボタンの掛け間違いが起こり、宗教が必要不可欠なものになる。
実に狡猾なやり口だから、一般の人間は、この罠に気づかない。
代表例が、光が実在で暗闇は光の不在概念という本末転倒の論理だ。
宗教が光一元を主張する根拠がここにある。
宗教は何故そんな罠を人間に仕掛けなければならなかったのか。
罠に嵌った一般凡夫の人間は、以来、悩みと四苦八苦の人生を送る羽目に陥った。
同じ人間が同じ仲間の人間になぜそのような苦しみを与えることをするのか。
人間社会だけに、支配する者と、支配される者という二つの区分け(差別)が生まれたからだ。
更に、支配する者と、支配される者という二つの区分け社会(差別社会)を未来永劫堅持するために、世襲と相続の慣習をつくりあげたからだ。
「支配・被支配二層構造の社会」と「世襲・相続の差別制度」
「間違った錯覚の二元論」というボタンの掛け間違いをした結果生まれたものである。
「二元論」の本質には、ある鉄則が厳然と働く。
質的優位性=量的劣位性、質的劣位性=量的優位性というものだ。
平たく言えば、質の良いものは量(数)が少なく、質の悪いものは量(数)が多い。
量(数)の多いものは質が悪く、量(数)の少ないものは質が良い。
たとえば、
強い者は少なく、弱い者が多い。
賢い者は少なく、愚かな者が多い。
金持ちは少なく、貧乏が多い。
支配する者というのは質的優位性、つまり、強い、賢い、金持ちを誇る側だから、量的劣位性、つまり、数は少ない。
支配される者というのは質的劣位性、つまり、弱い、愚か、貧乏を誇る側だから、量的優位性、つまり、数は多い。
これでは、支配者たちは、いつ数の多い支配される者たちに寝首を掻かれるかもしれず、不安で仕方ない。
そこで、支配者たちに加担した宗教者たちが登場して、ボタンの掛け間違いを仕掛けたわけだ。
「無いものねだり」の「完全(証明)不可能」、「100%(証明)不可能」な話を捏造して、一般凡夫、つまり、支配される者に錯覚を植え付けたのである。
「完全(証明)不可能」、「100%(証明)不可能」なことを可能にする超人間的存在の「神」を、彼らの後ろ楯にしたのである。
以来、そんな不条理な神を、一般凡夫は、神と崇めさせられてきたのだ。