(その十二)悟っていないのは人間だけ

「悟り」という言葉がある。
言葉だから、これは人間がつくった概念であり、観念に過ぎない。
人間が「悟っていない」から、「悟り」という言葉があるわけだ。
端から悟っている者には、「悟り」という概念に基づく言葉など要らない。
何故なら、「悟っていない」という観念すらないからである。
人間だけが「悟っていない」という観念を持っているから、「悟り」という言葉を先ずつくって、そして、「悟っていない」という観念に「迷い」という言葉を当てはめたわけだ。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念だから、「悟り」は(不在)概念であって、「迷い」が実在する観念なのである。
「健康」という言葉があるが、この言葉についても、「悟り」という言葉と同じことが言える。
人間が「健康でない」から、「健康」という言葉があるわけだ。
端から健康である者には、「健康」という概念に基づく言葉など要らない。
何故なら、「健康でない」という観念すらないからである。
人間だけが「健康でない」という観念を持っているから、「健康」という言葉を先ずつくって、そして、「健康でない」という観念に「病気」という言葉を当てはめたわけだ。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念だから、「健康」は(不在)概念であって、「病気」が実在する観念なのである。
「幸福」という言葉など、「悟り」や「健康」という言葉よりもはっきり言える。
人間が「幸福でない」から、「幸福」という言葉があるわけだ。
端から幸福である者には、「幸福」という概念に基づく言葉など要らない。
何故なら、「幸福でない」という観念すらないからである。
人間だけが「幸福でない」という観念を持っているから、「幸福」という言葉を先ずつくって、そして、「幸福でない」という観念に「不幸(不幸福)」という言葉を当てはめたわけだ。
従って、先ず実在する観念があり、観念が無い状態が(不在)概念だから、「幸福」は(不在)概念であって、「不幸」が実在する観念なのである。
「生」と「死」についても同じことが言える。
「オス」と「メス」についても同じことが言える。
「善」と「悪」についても同じことが言える。(「偽善」という言葉があっても、「偽悪」という言葉がないことが、悪が実在で、善など無い証明だ)
「強」と「弱」についても同じことが言える
「賢」と「愚」についても同じことが言える。
「富」と「貧」についても同じことが言える。
「天国」と「地獄」についても同じことが言える。
「神」と「悪魔」についても同じことが言える。
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「運動」と「静止」についても同じことが言える。
そこで、
「自己客観視」という言葉がある。
人間だけが「自己客観視」していないから、「自己客観視」という言葉があるのだ。
「自己主観視」という言葉などない。
何故なら、人間だけが「自己主観視」しているからだ。
人間にとって、「自己主観視」が実在する観念であって、「自己客観視」はその(不在)概念であるから、「自己客観視」という言葉があるのだ。
所詮、「無いものねだり」に過ぎない。
人間だけが、悟っていない、「自己客観視」していない証明である。