(その十二)主観社会と客観社会

宗教と科学は同じ穴の狢である。
宗教と政治は同じ穴の狢であった。
それを打ち破ろうとした科学も、やはり、同じ穴の狢だったわけだ。
科学とは客観性の追求だという思い込みがある。
政治とは客観性の追求だという思い込みがある。
経済とは客観性の追求だという思い込みがある。
一方、
宗教とは主観性の追求だという思い込みがある。
しかし、宗教と政治は嘗て一枚岩だった。
ということは、政治も宗教とおなじ主観性の追求に外ならなかったのである。
そして、宗教と科学も同じ穴の狢であるから、科学も宗教と同じ主観性の追求に外ならなかったのである。
詰まる処、知性ある生き物・人間とは主観のみで生きていると言っても過言ではない。
主観性とは部分観に外ならない。
自分は所詮部分であって、自分を包摂する全体があることを忘れて、恰も自分がすべてである、つまり、自分が全体だと思い込む傲慢さと無自覚さが主観性の正体であり、政治も宗教も科学もみんな傲慢さと無自覚を兼ね具えている所以である。
主観性とは、すべてが必然として起こるという思い込みをする傲慢さと無自覚さがその正体である。
主観性という傲慢さと無自覚さが差別・不条理・戦争を惹き起こす。
全体感で生きている他の生き物は客観性で生きている。
客観性とは全体感に外ならない。
自然、つまり、地球という全体に包摂されて生きている他の生き物は、全体(地球)に対して徹底して従順であり、全体に対して徹底した従順さこそが客観性の実相である。
客観性とは、すべてが偶然に起こることを知っていて、しかも、偶然に起こることを徹底して受け入れる姿勢に外ならない。
アインシュタインの相対性理論の原点は(旧約)聖書にあった。
聖書のアダムとイブの話が、日本書紀では伊弉諾命(イザナギノミコト)と伊弉冉命(イザナミノミコト)になり、聖書のモーゼやイエス・キリストの話が聖徳太子になっている。
日本の歴史はまさに聖書の歴史をコピーしただけに過ぎない。
すべてを主観で観てきた人間の為せる業だ。