(その十二)真の時間

「光」を絶対者(神=C=Constant=一定)の地位に押し上げた張本人が宗教であり、科学である。
16世紀からの近代社会、特に、20世紀からの現代社会では、古代・中世の時代に権力と結託していた宗教が科学によって横に押しやられて、以来、宗教は“まゆつばもの”と考える人間が多くなった結果、客観性事実(?)を主張する科学が逆に“信頼性がある”と盲信しているのが現代人の特徴だ。
だが、宗教と科学はその発生動機において同じ穴の狢であることを、現代人である我々は忘れさせられて(考えないようにさせられて)いる。
「光」を絶対者(神=C=Constant=一定)の地位に置き、その下に『過去・現在・未来』という「時間」を置き、更にその下に「空間」という現実(?)世界(宇宙)を置くことによって、「空間」に存在するものはすべて、「時間」と「光」に支配されることになったわけだ。
この考え方は宗教も科学もまったく同じである。
表現の仕方が違うだけで、宗教では、「光」を神にし、「時間」を輪廻転生する魂と表現し、「空間」を肉体と表現しただけだ。
この事実無根の考え方を押し付けられた我々人間(特に現代人)は、朝から晩まで、寝ても覚めても、錯覚(勘違い)の一生を送らされる羽目に陥った。
『過去・現在・未来』を時間と錯覚させることで、自分の自分たる所以である『今の自分』に気づかせないようにした犯人が、宗教であり科学であったわけである。
『今の自分』の『今』という本当の「時間」。
『今』という本当の「時間」の中の『自分』という「空間」と言い換えてもいいだろう。
『自分』という「空間」の中の『今』という本当の「時間」と言い換えてもいいだろう。
この実時間と虚時間のどんでん返しが、実は、我々人間の錯覚(勘違い)の原点にあり、脳がその張本人である。
知性、つまり、大脳新皮質が中途半端な状態だから、『死の概念』という中途半端な理解しかできず、『死の理解』まで至らない。
中途半端が問題である。
『今』という本当の「時間」の中の『自分』という「空間」と言い換えてもいいだろう。
『自分』という「空間」の中の『今』という本当の「時間」と言い換えてもいいだろう。
『今、ここ』こそが「時空間」の世界に外ならない。
三次元空間の上に『過去・現在・未来』という四次元要因の「時間」があるのではない。
三次元空間の中に『今』という本当の「時間」があるのだ。