(その十二)錯覚の元凶

光を絶対的なものと捉え、それ以外のものはすべて相対的と捉えるのが相対性理論であり、宗教も「光」を絶対者(神)に仕立てあげた。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教といった旧約聖書をバイブルとした宗教は「光」を神としているし、古代インドの哲学書「ウパニシャッド」でも「光」を神にしているし、天照大神の日本神道も光信仰であり、最古の宗教と言われている拝火教(ゾロアスター教)も「光(火)」信仰である。
唯一、イエス・キリストが学んだとされる「エッセネ・スクール(エッセネ派)」だけが、暗闇(Darkness)が神だと主張している。
何故なら、「光」は有限だが、「暗闇」は無限だ。
何故なら、「光」は人工的に造れる有限のものであり、「暗闇」は人工的に造ることができない無限のものである。
人工的=有限=映像
非人工的=無限=実在
この真理を忘れさせる(考えさせない)ための小道具が相対性理論であり宗教なのである。
結果、
我々人間は錯覚(勘違い)の人生を送る羽目になった。
結果、
我々人間は、
“生は好いが、死は好くない”という錯覚(勘違い)に嵌った。
しかし、
生は人工的に造れる有限のものであり、死は人工的に造ることができない無限のものである。
結果、
我々人間は、
“健康は好いが、病気は好くない”という錯覚(勘違い)に嵌った。
しかし、
健康は人工的に造れる有限のものであり、病気は人工的に造ることができない無限のものである。
結果、
我々人間は、
“お金持ちは好いが、貧乏は好くない”という錯覚(勘違い)に嵌った。
しかし、
お金持ちは人工的に造れる有限のものであり、貧乏は人工的に造ることができない無限のものである。
結果、
我々人間は、
“幸福は好いが、不幸は好くない”という錯覚(勘違い)に嵌った。
しかし、
幸福は人工的に造れる有限のものであり、不幸は人工的に造ることができない無限のものである。
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こういった錯覚(勘違い)の連続の人生を送っているのが、我々人間であり、その元凶に、光を絶対的なものと捉え、それ以外のものはすべて相対的と捉える相対性理論があり、「光」を絶対者(神)に仕立てあげた宗教がある。