(その十一)最後の抵抗

江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督、橋本実梁、副総督、柳原前光、参謀、西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。
同時に徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨が下された。
この勅旨を受け、11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、東征軍が接収した。
それより前、4月8日に東征大総督、有栖川宮は駿府を発し、4月21日に江戸城へ入城した。
ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。
また京都では4月9日、明治天皇が御所の紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告した。
一方、海軍副総裁の榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、約束の軍艦引き渡しを断固拒否していたが、徳川慶喜が寛永寺から水戸へ移った4月11日、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港し、館山沖に逃れた。勝の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協したが、これにより降伏条件は完全には満たされなくなった。
その後も再三にわたり勝は榎本に自重を求めたが、徳川家に対する処分に不服の榎本はこれを聞かず、8月19日に8隻(開陽・回天・蟠竜・千代田形・神速・長鯨・美賀保・咸臨)を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。
後に榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した。
世に言う箱館戦争である。