(その十一)列強の圧力

西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を呑み、総攻撃を中止した背景には、英国公使、ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったからである。
慶応4年(1868年)1月25日。
英国公使、ハリー・パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳であるアーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせる一方、3月13日午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣した。
東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀、木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。
ハリー・パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止した。
ハリー・パークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと主張し、パークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったのである。
パークスの圧力は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用した節がある。
事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている一方、パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている。