(その十一)錦の御旗のお膳立て

慶応4年(1868年)3月11日。
東山道先鋒総督参謀の板垣退助(土佐藩)が八王子駅に到着。
3月12日には同じく伊地知正治(薩摩藩)が板橋に入り、13日には東山道先鋒総督、岩倉具定も板橋駅に入って、江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。
しかし西郷は血気にはやる板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。
江戸に到着したばかりの西郷と、西郷の到着を待望していた勝との間で、3月13日に行われた第一回交渉では、和宮の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。
3月14日の第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示された。
(1) 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する
(2) 徳川慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命にかかわる処分者は出さない
(3) 武器、軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す
(4) 城内居住の者は、城外に移って謹慎する
(5) 江戸城明け渡しの手続きを終えた後は即刻、田安家へ返却を願う
(6) 暴発の士民鎮定の件は、可能な限り努力する
以前に山岡に提示された条件に対する全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかったが、西郷は勝・大久保を信頼して、翌日の江戸城総攻撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。
江戸城無血明け渡しが決定された。
この日、京都では明治天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布され、明治国家の基本方針が示されたのである。
ここに、
錦の御旗のお膳立ての下に、新しい国家が誕生したのである。