(その十一)勝海舟と西郷隆盛

勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していた。
もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。
1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦を参考にしたらしく、いったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だった。
勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めた。
これらは後年の勝が語るところであるが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでが真実なのかは不明である。
しかし、西郷との談判に臨むにあたってこれだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと回顧している。
山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁、大久保一翁、陸軍総裁、勝海舟と、東征軍参謀、西郷隆盛との江戸開城交渉は、田町(東京都港区)の薩摩藩、江戸藩邸において、3月13日、14日の2回行われた。
勝と西郷の2人のみで会談したのではなく、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から村田新八、桐野利秋らも同席していた。
勝と西郷は元治元年(1864年)9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。
西郷は徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた。
維新の群像の写真の中に、二人が一緒に居たことが事実である証左だ。