(その十一)維新(無血革命)の背景

差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた高橋泥舟の義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)が、3月9日、慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた東征大総督府に赴くこととなった。
山岡は西郷を知らなかったので、まず陸軍総裁、勝海舟の邸を訪問した。
勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士、益満休之助を護衛につけて送り出した。
山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士、清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であったため、二人は駿府の大総督府へ急行し、参謀、西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。
すでに江戸城総攻撃の予定は3月15日と決定されていたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。
このとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の七箇条である。
(1) 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること
(2) 江戸城を明け渡すこと
(3) 軍艦をすべて引き渡すこと
(4) 武器をすべて引き渡すこと
(5) 城内の家臣は向島に移って謹慎すること
(6) 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること
(7) 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること
山岡は七箇条のうち第一条を除く六箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。
ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するかと詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった。
ここに来ての西郷の軟化は、和宮などの度重なる歎願や、徳川家側の責任者が信頼に足る大久保一翁・勝らであることが判明したことなどにより、この頃すでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったためである。
実際、この日西郷が山岡に提示した七条件も、前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。
山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告。
西郷も山岡を追うように11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入った。
江戸城への総攻撃が予定されていた15日のわずか2日前であった。