(その十一)嘘で塗られた維新

慶応4年(1968年)1月21日。
静寛院(和宮)は徳川慶喜の歎願書に橋本実麗・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした。
東海道先鋒総督の橋本実梁は、2月1日に在陣中の桑名(三重県)でこの書状を受け取った。
しかし、参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず、報せを受けた京都の大久保利通もまた同意見であった。
土御門藤子はやむなく上京し、6日に入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わり、16日橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得、18日に京都を発った藤子は2月30日に江戸へ戻り、静寛院(和宮)に復命している。
一方、
輪王寺宮公現法親王は2月21日、江戸を発って東海道を西に上り、3月7日には駿府で大総督有栖川宮熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。
天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し、3月11日に東征軍へ使者として老女を遣わしている。
この使者は13日に帰城しているが、ほとんど何の効果もなかった。
これらの歎願の多くは結果的には却下されることが多かったが、大総督有栖川宮や参謀西郷隆盛などに何らかの心理的影響を与えた可能性もあり、小説やドラマなどでは積極的にエピソードとして採用されているようだが、維新とはまさに嘘で塗られた歴史なのである。