(その十一)遷都反対論

明治2年(1869年)1月25日。
東京への再度の行幸を前に岩倉は、天皇の意向を知らずに政府や民間で遷都があるかのように思っている者が少なからずいるために、京都や大坂の人々の動揺が大きくなっているとし、関東諸国は王化が行き届いていないため新政を施すための再幸である旨を十分に分からせるための諭令を出すよう求める建議を行なった。
政府内でも遷都論を唱えるものがいるとし、天皇の考えによる遷都の沙汰もなく、臣下の身でこれを唱えることは、断じて承知しないと遷都論に釘をさした。
3月7日、翌年の3月には京都に戻り冬に大嘗祭を行なうこととして、三条実美らを従えて再び東京への行幸が行われた。
明治天皇が3月28日東京城に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称することとされた。
このとき、「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。
ついで10月24日には皇后も東京に移った。
こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになった。
天皇・皇后の東京への行幸のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸の中止・反対の声があがり、政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めた。
更には、東京再幸の反対運動の騒動の際には、ときの情勢に乗じて名古屋遷都を画策するものまで現われた。