(その十一)非公式の都・東京

明治元年(1868年)5月24日。
徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も決され、政府は6月19日、参与、木戸孝允と大木に江戸が帝都として適しているか調査にあたらせた。
二人は有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、7月7日に京都へ戻り、遷都が可能であることを報告した。
これを受けて7月17日、「江戸ヲ称シテ東京ト為ス」の詔書が発せられた。
この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみることと、そのために江戸を東京と称することが発表された。
保守派や京都市民への配慮から、東京遷都を明確にはしなかったものの、東西両都の方針通り東京が誕生した。
つまり、
東京という名が、江戸が正式の都ではないことの逆証明になったのである。
明治元年(1868年)8月27日。
明治天皇は、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、9月20日に京都を出発して、東京に行幸した(東幸)。
岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。
天皇は10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。
続いて10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決することを宣言する詔を発し、そして東京の市民はこの東幸を盛大に祝った。