(その十一)東京誕生

大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。
そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。
明治元年3月21日(1868年4月13日)。
明治天皇が京都を出発。
副総裁、三条実美ら1,655人をともない、23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。
天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、4月8日京都に還幸した。
その後、遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市のひとつであり、帝都にしなければ市民が離散してさびれてしまう江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保に届けられた。
4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に一気に移っていった。
明治元年(1868年)4月1日。
大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出した。
数千年王化の行き届かない東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものだった。
この意見も大久保が提案した「大坂行幸」と同じく、遷都ではないため保守派にも比較的受け入れられやすい案であった。
江戸に皇居を置き東京とするという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』に既に現われており、これに影響を受けて大久保利通も東京遷都を建言した。