(その十一)大坂か東京か

幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていったが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていた。
しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、主に大坂がその地として意識されていた。
鳥羽・伏見の戦い直後の明治元年(慶応4年)1月17日、参与、大久保利通は、総裁、有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行なって、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。
朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るのが、大久保の狙いだった。
1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。
しかし、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受け、1月26日に廃案となった。
大久保は、副総裁、岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。
大久保利通は、京都には旧弊が多いとして大阪遷都論を政府へ提出し、木戸孝允(桂小五郎)もこれに強く賛同していたのである。
一方、公家などから反対が多く、結局、大阪行幸の実行に留まったが、大久保・木戸らの間で遷都論は燻り続けていた。
そんな中、江戸城が無血で新政府の管轄に入ったことは、遷都先として江戸が急浮上することに繋がった。
慶応4年9月8日、年号が明治と改元されると、同月20日、明治天皇が東京(7月に江戸から改称)行幸に出発し、10月13日に江戸城に到着した。
江戸城も東京城と改められ、東幸の際の皇居と定められた。
幕府のシンボルであった江戸城に天皇が入ることで、天皇が皇国一体・東西同視のもと自ら政を決することを宣言するデモンストレーションともなったのである。
この後、再度の東幸が行われるとともに、首都機能が京都から東京へ次々と移転。事実上、東京が首都と見なされるようになり、東京城はやがて「宮城」「皇居」と呼ばれるようになった。