(その十一)日本を奪われた徳川家

徳川家処分に不満を持つ抗戦派は、江戸近辺で挙兵するが、新政府軍に各個撃破される。
福田道直率いる撒兵隊は1500人程度で木更津から船橋へ出て東海道軍と衝突、撃破された(市川・船橋戦争)。
大鳥圭介と歩兵隊は下総国府台(千葉県市川市)に集結し、新選組の土方歳三らを加えて宇都宮城を陥落させるが、東山道軍によって奪還され(宇都宮城の戦い)、日光街道を北へ逃走し、その後東北から箱館へ転戦した。
一方、一橋徳川家家臣の渋沢成一郎・天野八郎らは上野寛永寺に謹慎していた慶喜の冤罪を晴らし、薩賊を討つと称して幕臣などを集め、彰義隊を結成。
上野の山に集結していた。
江戸城留守居の松平斉民は、彰義隊を利用して江戸の治安維持を図ったが、かえって彰義隊の力が増大し、新政府軍の懐疑を招いた。
4月11日に慶喜が上野を退去した後も、彰義隊は寛永寺に住まいとする輪王寺宮公現法親王を擁して上野に居座り続けた。
閏4月29日関東監察使として江戸に下った総裁、三条実美は、鎮将府を設置して民政・治安権限を徳川家から奪取し、彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告した。
その後、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告し、5月15日に大村益次郎率いる新政府軍が1日で鎮圧した(上野戦争)。
これらの戦いにより、抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。
関東監察使、三条実美は閏4月29日、田安亀之助(後の徳川家達)による徳川家相続を差し許す勅旨を伝達した。
ついで5月24日には、駿府70万石に移封されることが発表となった。
これにより新たに静岡藩、徳川家が成立したが、800万石から70万石への減封によって膨大な家臣団を養うことはできなくなり、駿府へ赴いた者は15000人程度だった。