(その十)蝶々夫人

「蝶々夫人」はプッチーニの歌劇で有名であり、アメリカ軍人、ピンカートンの恋人だが、そのモデルは、長崎グラバー邸の主、トーマス・グラバーであり、蝶々夫人のモデルは、水戸藩浪士、佐伯善乃介の娘、倫子という。
ふたりの間には、一人娘、エミーがいたが、歴史の舞台からは抹殺されていた。
西南の役で、西郷隆盛が自害すると、トーマス・グラバーは日本を離れ、故郷スコットランドに引っ込み、倫子は、エミーを連れて神戸北野に移り住んだが、混血のエミーの身の危険を感じて、エミーだけは京に行かせた。
二人を残して日本を去ったトーマス・グラバーは、坂本龍馬が身を寄せていた、京の寺田屋の女将お登勢にエミーの将来を託していたからだ。
武器商いで残した莫大な財産すべてをお登勢に託し、倫子は北野で静かに余生を送った。
ところが、明治27年(1894年)に日清戦争が勃発、北野に居を構えていた多くの香港華僑たちが、身の危険を感じて、神戸から京の六波羅に秘かに移り住んだ時、倫子も京に赴き、エミーとの再会を果たし、以後、六波羅に近い、東山三条に小さな家を構え、親子水入らずの幸せな一時を過ごしていた。
それから10年が経って、日本が再び騒々しくなってきた。
欧米列強覇権帝国主義をリードする大英帝国に翳りが見えてきたのがきっかけで、啓蒙主義に傾倒したロシアのロマノフ王朝のニコライ二世が太平洋目差して南下してきたのである。
日露戦争の勃発だ。
日露戦争の背景には、大英帝国とロシア帝国の覇権争いの激化があった。
スコットランドに身を引いていたトーマス・グラバーが、再び、来日する機会がやってきたのである。