(その十)シルクロードの最終地・薩摩

隼人とは、薩摩・大隅に居住した人々で、“はやひと”とも呼ばれ、ヤマト王権の支配下に組み込まれたが、倭人とは異なる民族と言われる。
近世に至って、尚武の気風から、薩摩藩士や鹿児島県の男子は「薩摩隼人」と呼ばれたが、それ以前(八世紀)は阿多隼人と呼ばれ、その祖とされる御家人層などは関東武士が多い。
熊襲と呼ばれた人々は、日本書紀の「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)物語」などの伝説的記録に現れるのに対し、隼人は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。
隼人は、五世紀ごろに服属したといわれ、居住地によって種々の隼人一族が存在する。
大隅半島地域に居住した大隈隼人は、主領域を肝属平野とする部族で、日本書紀(天武天皇十一年(682年))の記述で有名である。
薩摩国阿多郡と呼ばれる地域に居住した阿多隼人が、いわゆる、薩摩隼人の祖先であり、日本書紀(天武天皇十一年)』に記された大隅隼人同様、この当時には、大和朝廷の強い影響下にあった。
702年薩摩国設置後の事跡は、薩摩隼人の呼称が用いられる。
日向国に居住した日向隼人は、後に大隅国囎唹郡と呼ばれる地域を主領域とした部族と考えられ、大隅隼人の別称である可能性がある。
『宇佐八幡神宮史』に「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」)が見られる。
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。
隼人一族は、古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。
特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。
聖徳太子の時代に活躍した秦川勝の本拠地である太秦こそが、この地に当るわけだ。
そして、律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。
言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされ、特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。
また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている。
肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいた。
また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことである。
日本神話では、天の橋立にある丹後一宮、元伊勢で有名な籠神社の始祖である海幸彦(火照命)が、隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞である。
この説話は、隼人の服属の起源を述べたものとされるが、むしろ説話自体が隼人の説話からとり入れられたもので、説話の類型から、隼人文化はオーストロネシア語系文化であると言われ、海路のシルクロードで渡ってきたものらしく、海路のシルクロードの最終到着地が薩摩であり、まさに、日本の先端であったのだ。