(その十)陰謀のシナリオ

慶応4年(1868年)1月11日。
品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。
慶喜はひとまず13日歩兵頭に駿府警備、14日には土井利与に神奈川警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。
さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。
鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの二つの選択肢があったわけである。
勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭並の榎本武揚らは主戦論を主張。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、兵力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。
19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮にも同様の要請をしている。
続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。
若年寄 平山敬忠
陸軍総裁 勝海舟
海軍総裁 矢田掘鴻
会計総裁 大久保一翁
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の二人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。
この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。
27日、慶喜は紀州藩主徳川茂承らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。
ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。
さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分。
12日、慶喜は江戸城を御三卿田安家当主、徳川慶頼に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送った。
まさに、
陰謀のシナリオの獲物が見事に掛かったのである。