(その十)錦の御旗擁立劇

紀元前239年、中国をはじめて統一した秦の始皇帝の命を受けて、徐福は不死の仙薬を求めて東海の三神山に赴いた。
東海の三神山こそ、和歌山の熊野三山であった。
熊野三山とは、熊野三社のことであり、熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社のことを指す。
時は700年を過ぎ、西暦561年、隋の皇帝、煬帝によって朝鮮半島まで追われた司馬達頭(融通王)は、玄海灘を縦断し、豊後水道を通過して、瀬戸内海まで入ったところで上陸した。
上陸した場所が坂越であった。
後に秦一族の高祖になった弓月王その人であり、700年の時空を超えて徐福の末裔に違いない。
そうだとすると、徐福こそ、秦の始皇帝その人であったことになる。
爾来、1300年の時が過ぎて、一人の少年が、坂越から旅立つことになるのである。
その少年こそが、大室寅乃介であり、後の明治天皇であり、錦の御旗になるためである。
当時の日本は、江戸幕府第13代将軍、徳川家定の治世であった。
徳川家定は島津斉彬の養女、篤姫を御台所として迎えたが、錦の御旗の前衛として送り込まれたのが篤姫であり、薩長同盟の前衛でもあった。
薩長同盟の正体は、日本という国に錦の御旗を掲げることにあり、後に官軍が圧倒的強さを誇って、義の上杉軍団をも凌駕でき得たのも、錦の御旗のお陰であった。