(その十)薩摩隼人

熊襲は、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えた。
だが、薩摩隼人は聞き馴れた言葉だが、熊襲隼人など聞いたことがない。
薩摩隼人とは、古代の「隼人」の血統を引き、その敏捷、勇猛な点が似ている点から、薩摩の武士の異称となっており、現在では鹿児島県出身の男を言う。
なんと自己矛盾した話ではないか。
薩摩という国は謎が多い。
薩摩が支配民族地であり、肥後が被支配民族地であることの証明になるわけだが、古事記の国産み神話で、筑紫島(九州)の四面のひとつとして語られ、別名を「建日別(タケヒワケ)」といったとされる熊襲とは、薩摩、日向、豊後・豊前、筑前・筑後の四面に囲まれているのが、肥前・肥後、つまり、肥(火)の国の熊本、長崎である。
まさに、筑紫島(九州)とは、肥(火)の国を封柵するためにあったと言っても過言ではない。
天草四郎の乱とは、単なる異教徒に対する弾圧の抵抗運動ではなく、先住民の侵略民に対する抵抗運動に他ならなかったのである。
しかも、四面の中心にいたのが薩摩隼人なのである。
さらに、中国地方の中心にいた長州と手を組んだ薩摩とは、一体如何なる国なのか。
薩摩隼人対熊襲隼人の戦いは、日本の歴史の中心にある。