(その十)明治維新の裏と表

京の舞妓の大半は京都出身者ではない、すなわち、京女ではない。
東男と京女と言われた所以は、京女の代表が舞妓であり芸妓であり太夫であったからだが、実の処は、彼らの多くは、京の舞妓に憧れた地方の女であり、トーマス・グラバーと倫子の間に生まれたエミーが、その走りをつけたことからはじまる。
明治維新以前の京の舞妓や芸妓は、一人残らず京女で占められていたが、明治5年京都博覧会に呼応してはじめられた『都をどり』を境に、京女以外でも舞妓や芸妓になれるようになった。
祇園による『都をどり』に対抗して、明治8年に先斗町による『鴨川踊り』がはじまったのである。
『都をどり』に対して、『鴨川踊り』としてはじまった理由は、明治天皇による江戸行幸が、そのまま遷都になってしまったことへの、京都人の反骨精神からだが、いつの頃からか、『鴨川踊り』も『鴨川をどり』になってしまった。
『都をどり』が毎年4月に催されるのに対して、『鴨川踊り』は毎年5月に催されるのにも理由がある。
一見、祇園の花街と先斗町の花街との対抗心からのように思われ勝ちだが、その訳は途轍もなく深い処にあり、そのきっかけをつくったのが、異国の男性と日本の女性との間で生まれた混血少女エミーが舞妓になった事件である。
倫子が京女であれば話は波瀾に満ちたものにはならなかったが、彼女が水戸藩浪士、佐伯善乃介の娘であったから複雑怪奇なものになった。
佐伯善乃介という名前から想像できる知性の逞しさが要るが、そのヒントは、佐伯善通という名前である。
しかも、佐伯という姓は秦一族、特に、四国の長曽我部に起因し、明治維新一の功績者、坂本竜馬の坂本家に通じる家柄だ。
明治維新の裏と表の顔がそこに顕れてくる。