(その一)いま今昔物語

「そうどす。この人がどないかしたんどすか?」
恵美子の堂々とした態度の応対で、ヤクザのような口ぶりの警官も襟を正した態度に豹変した。
「いや!こちらはどないもしてはりません!ここに倒れてる奴が、観光客の二人に乱暴しよったんを、こちらが止めてくれはったんですわ!ただ・・・・」
人だかりの中で、真っ青な顔をして震えている若い二人の男女を指差した。
藤堂頼賢の後ろに隠れている二人の方に視線をやると、二人は恐る恐る人だかりの中心に出てきて、事の次第を喋り始めた。
「清水寺に行こうとこの交差点で信号が青になるのを待っていたら、多勢の暴力団みたいな人たちが、私に話し掛けて来たんです・・・そこへ、この方がやってきて、後は何がなんだか・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
若い女の方が必死に喋ろうとしている一方、男の方はいまだに唇をぶるぶる震わせているだけで、言葉にならない。
「こちらが、8人いたこの辺のチンピラを袋叩きにしたんですわ!」
「8人!?」
辺りを見まわしながら絶叫する恵美子に、警官は慌てて手を振りながら説明した。
「他の7人は、飛んで逃げよったようで、他のパトカーで今追跡しているところですわ・・・」
「こちらは、わしらはよう知ってて、これまでもこんな事は数え切れんほどありますさかい・・・」
『よかった!』
恵美子は、藤堂頼賢の勇気ある行動よりも、自分の奮った勇気に心の中で拍手を送っていた。
『清水の舞台から飛び下りたら、みんな結果は好しなんやわ・・・』
「もうここは、わしらが片付けますから、お宅らは引きとってくれて結構ですが・・・、ただ参考の為に・・・」
警官が胸のポケットから手帳を出してきたのを見て、恵美子が咄嗟に機転を利かして、警官と藤堂頼賢の間に入った。
「下京区朱雀野の輪違屋の春若といいます・・・」
「ええ!あんた、舞妓はんでっか?」
「いいえ!うちは芸者どす!」
私服の警官は、更に襟を正して、手帳もメモせず胸にしまい、旧来の知人のような態度に変わった。
「ほんなら、もう何も聞くことありまへんから、どうぞお引き取りを・・・」
人だかりの喧騒から離れた恵美子がやっと平静に戻った時、藤堂頼賢がはじめて口を開いた。
「俺のこと庇ってくれたんか?」
彼女には正直言ってそんな余裕はなく、自分に打ち克つことだけで頭が一杯だったが、清水の舞台から飛び下りたことが好い結果を生んだだけだった。
だが、清水の舞台から飛び下りる勇気を奮わせたのは、八方塞がりの窮地であり、そんな状況を与えたのは、他ならぬ藤堂頼賢だったのである。
「そんなことあらしまへん!偶然どす!」
この時はじめて、恵美子は藤堂頼賢に芸妓言葉を使ったことに自身気がつき、蛇に睨まれた蛙の立場から逃れることに成功した。
『おなごでも、勇気を奮うということは大事なんやなあ・・・』
“餓鬼道に堕ぬと見れば、修羅に成りぬ”
今昔物語は今でも生きている。
二十一歳の手弱女が一枚の皮を破った瞬間だった。