(その一)修羅と餓鬼

輪違屋の女将の増絵に見抜かれかけたが、何とかその場を凌いだ恵美子は、母親の倫子という最大の難敵に苦慮していた。
増絵は経験にものを言わした眼力だが、倫子は自分の子宮を通り抜けてきた者に対するだけに、その障害性は修羅門の閻魔大王だ。
修羅の世界は女の世界であり、男の世界は餓鬼の世界なのである。
同じ二十歳の若者でも、女と男では大きな違いがある。
精神年齢だけの差ではない。
精神年齢の差だけでも女の方が十歳は老成しているが、それは量の差でしかない。
質の差というものがある。
女の質は修羅性にあり、男の質は餓鬼性にある。
常軌を逸した手弱女が、女の修羅性の発露だ。
常軌を逸した化け物が、男の餓鬼性の発露だ。
正月三箇日が過ぎると、京都の町の表情も普段に戻り、街行く人々の足取りも幾分早くなる。
観光客の数が減った証明である。
世界の観光都市・京都の面目は、年間の観光客数4900万人に表れていて、観光客の足取りはゆったりしているのに対して、京都人は足早であるから、街の表情で京都の季節が判るわけである。
「恵美子はん!」
恵美子が、祇園通りから四条通りに出て、八坂神社に向かったところで、後ろから声を掛けられた。
その声の主人が母の倫子であることは、振り返らずとも彼女は気づいていたが、咄嗟の危険予知アンテナが働いたため、気づかぬ振りをして、足取りを幾分速めた。
倫子が諦めるなら上々、そうでないなら、その時は振り返ればよい。
恵美子の着物姿の背中に目に見えない緊張が走っていたのを敏感に察していた倫子は、自分の足取りは敢えて逆に遅くした。
見る見るうちに恵美子の後ろ姿が遠ざかっていくのを眺める倫子の気配が逆に見る見るうちに遠ざかっていくのを背中で追う恵美子。
経過時間にして、ほんの数分の出来事だったが、恵美子にとっては途轍もなく長く感じ、倫子にとっては一瞬の間であったに違いない。
京都という町ゆえの出来事であり、普通の町では絶対に起こりえないことである。
家路と反対に、清水寺の方向に足を向けた恵美子は、まわりの光景に変化が起こっていることに暫く気づかなかった。
東山通りと六波羅通りの交差点付近に大きな人山ができていて、人山の間から数台のパトロールカーの赤い点滅灯が回っているのが見えた。
最初は交通事故かと思いながら、傍を通り抜けようとした。
人だかりの間から血だらけになった男が倒れているのが見え、その横で立っているのが藤堂頼賢であるのに気づいたのである。
一瞬、身を引いて、その場を立ち去ろうとしたが、彼女の腹の底から絞り出るような囁きが聞こえてきた。
『ここで逃げたら、うちの負けや!』
恵美子は、藤堂頼賢の毒牙に掛かって以来この一年間、逃げ出したい衝動の自分と、中毒患者のように嵌り込んでいく自分との間で生きてきただけに、進むも叶わず、退くも叶わずの八方塞がりの状態が続いていた。
『・・・のために、清水の舞台から飛び降りるんや!』
人山を掻き分け渦中の中に自然に入って行く自分に吃驚しながらも、今まで一度も経験したことのない心地良さに浸る自分に拍手を送っているではないか。
「また、喧嘩したんどすか!」
恵美子の声に気づいたのか、豆鉄砲を食らった鳩みたいにきょとんとしている藤堂頼賢の横にいた私服の警官らしき男が、彼女の方に歩みよってきた。
「あんた、こちらの連れかい?」
頭は坊主刈りで、服装と話しぶりはまるでヤクザだ。
恵美子は一瞬怯んだが、胸の囁きが後押しする。
『ここで逃げたら、うちの負けや!』
『・・・のために、清水の舞台から飛び降りるんや!』
恵美子が修羅の世界に足を踏み入れた瞬間だった。
そして、
藤堂頼賢が餓鬼の世界に足を踏み入れた瞬間だった。