(その一)傍若無人

「春若はん!あんさん、お子を宿してはるんと違うんどすか?」
春若は恵美子の芸名である。
増絵の言葉が恵美子の心臓を一突きした。
大晦日の夜は悪酔いだと思い込んでいたが、元旦の朝の身内だけの正月祝いも終えて、午後から自分の部屋で寛いでいたら、体の様子が一変したのだ。
からだが匂いに敏感になっていて、馴れているはずの自分の化粧品の匂いで吐き気がする。
『これはどう考えても異常やわ・・・』
思い当たる節がなければ問題はないのだが、思い当たる相手がある、しかも、その相手が傍若無人の男だけに事は深刻にならざるを得ない。
去年はじめの三十三間堂での成人式でめぐり逢った藤堂頼賢は、男子の新成人の中で一際異彩を放っていた。
800年の時の隔たりを一気に引き寄せた強力の兵で、まさに源為朝の生まれ変わりのような青年だった。
女性の新成人で競われる通し矢試合では恵美子が優勝し、男性の新成人で競われる遠的試合では藤堂頼賢が優勝して、二人は祝いの席を設けられた。
祝いの宴席が終わった時は、夜の7時を過ぎていた。
徒歩で家路に就いた恵美子の後を藤堂頼賢が追い掛けてきた。
「家はこの近くなんか?」
建前ではいくら警戒していても、本音では期待に胸を膨らませていただけに、彼女の想いが一気に吹き出した。
理屈で人の世は通用しないのは、人の世だけが本音と建前の分裂症に陥っているからであり、しかも、本音が実在で、建前は幻想に過ぎないのに、建前で生きようとするからだ。
畢竟、本音に振り回される。
試合での藤堂頼賢の存在は周りを圧倒していた。
恵美子も圧倒された一人だ。
他の若者たちが放つ矢の放物線と彼のものでは、まさに“もの”が違うのだった。
60mの距離の間での放物線と、120mの距離の間での放物線とでは、2倍の一次元距離の差ではない。
2の2乗の4倍の二次元の面の差になる。
1m70cmの60kgの男と、1m80cmの70kgの男の差ではない。
1m70cmの60kgの男と、3m60cmの140kgの男の更に2倍の面の差になる。
存在感の差は圧倒的なのである。
後光が差す、つまり、オーラとは実際の光ではない。
そんなものはただの幻想に過ぎない。
異次元の差なのである。
一次元の線の差と二次元の面の差は2の2乗、つまり、4倍の差になり、三次元の立体との差では2の3乗、つまり、8倍の差になり、四次元の時空間の差では2の4乗、つまり、16倍の差になる。
圧倒的な存在感の差がオーラを感じさせるのだ。
藤堂頼賢の圧倒的な存在感が放つオーラが彼女を眩ませ、彼の姿はまさに不動明王に見え、彼女は教祖に呪詛を掛けられた抵抗不能な信者になってしまったのである。
教祖と信者では、所詮、勝負にならない。
新興宗教の団体がオカルト集団になって世間に牙を剥くのは、教祖に呪詛を掛けられた無力な信者の為せる業であるが、こういった狂気沙汰は何も新興宗教だけに限られたものではない。
キリスト教の十字軍遠征が、その最たるものだ。
500年に亘って殺戮の限りを尽くした十字軍は、一人のローマ教皇の発令によって始まったのである。
地下鉄サリン事件で無差別殺人を起こした新興宗教の団体と、十字軍遠征で殺戮の限りを尽くしたキリスト教と、何処に違いがあるというのだ。
信者の数の多い、歴史のある旧来の宗教団体がする殺人行為は聖戦と言い、信者の数の少ない、歴史のない新興宗教の団体がする殺人行為は犯罪と言うのか。
国連の安全保障常任理事国だけが、究極の殺戮マシーンである原爆を保有することができ、北朝鮮やイランといった国にその気配を感じると躍起になる現代人間社会とはいったい何なのだろうか。
不条理の限りを尽くした世界が人間社会なのである。
藤堂頼賢という蛇に睨まれた蛙が恵美子だ。
彼女は、この一年間、藤堂頼賢に陵辱され続けた。
その挙句が、孕まされたというのなら、弱肉強食の自然社会と何も変わらない。
自然社会では、強者のオスの種を渇望するのがメスの宿命だ。
種の保存本能欲の発露である。
ボスが替わった猿社会では、メス猿は前のボスと情を交わした結果生んだ子猿を自ら殺し、新しく強い種を受け入れる姿勢を新しいボス猿に示す。
種の保存本能欲の前には、母親の愛情すら色褪せてしまうのだ。
人間の潜在意識にも、この性癖は色濃く残されているのだが、自然社会を自ら出ていった人間には、新しい性癖がその上に覆い被さっていて、このギャップが精神分裂を誘導し、四苦八苦の人生に導いているのである。
彼女の置かれた状況は、自然社会では何の変哲もない日常茶飯事なのだが、人間社会では大変な問題に発展していくのだ。