(その一)相身互身

日本の正月は元日・二日・三日の三箇日と決まっているが、京都の店の正月は元日だけであり、十日を過ぎてから後正月を迎える。
元日だけは、すべての店は休むが、二日以降は店を開けるのが京都の商いの常識であり、その分、十日以降に固めて休みを取るから後正月と呼ぶ。
これも京都の伝統だ。
元日だけ置屋から休みを貰えた恵美子だったが、聡と八坂神社の朮詣を済ませた後、母の倫子と一緒に朮火で雑煮をつくっていた。
「中村屋で何かあったんどすか?」
倫子は俎板の上にある京漬物に包丁を入れながら恵美子に訊いたが、視線は敢えて逸らした。
「・・・・・」
倫子がすべてを看通していることを承知している恵美子は無言を通した。
芸者上がりの母には、痛いほど彼女の気持ちがわかるのだ。
倫子が畑正三と出会ったのも中村屋の座敷であった。
中村屋は御池室町下るにある二百六十年を誇る料亭であり、幕末を賑わした寺田屋や池田屋と同じように、勤王の志士たちや、新選組の芹沢鴨が常連としていた料理屋である。
寺田屋や池田屋が鴨川の堤に近い三条近辺の料理屋であったのに対して、中村屋は北の御池通り近辺にあっただけに、歴史の舞台から忘れられていたのである。
帝の住まいである御所は、今では、丸太町と今出川の東西大通りと、烏丸と河原町の南北大通りに囲まれた場所に移っているが、もともとは、御池通りを中心にした更に南西の位置にあった。
京の都が山城の地、つまり、太秦周辺を原点にしたからである。
次期帝の地位争いを制した桓武天皇が、敗北していった多くの親王たち政敵の怨念を鎮魂するために、平城京から遷都を考え、長岡京に一旦は遷都したが、祟りが鎮まる気配が一向になかった。
当時、山城の地である現在の太秦に居を構えていた秦一族の助けを借りて、度重なる川の氾濫で沼地化していた鴨川流域を、川底に堰をつくることによって氾濫を防ぎ、新しい都として建設したのが平安京であり、今の京都の市街地である。
太秦に近い嵯峨野の地を流れる桂川の上流である保津川に堰をつくり、渡月橋を架け、嵐山の麓を開拓したのも秦一族である。
御池通りは天皇家と秦一族を結ぶ主要幹線であったわけであり、そのルーツは聖徳太子と秦川勝の時代にまで遡る。
御池通りに店を構えた二百六十年前の初代中村吉右衛門は、天皇家と秦一族の繋ぎ役を仰せ付かっていて、繋ぎ場所がいつの間にか料亭・中村屋になったのである。
倫子は中村屋に通う常連たちに一番人気のある芸者だった。
新選組があった壬生通りの外れにひっそりと構える島原大門を潜ると、朱雀野遊郭(島原遊郭)に入り、その中でも輪違屋は、芹沢鴨の側近平間重助のお気に入りの芸妓糸里や、参謀伊東甲子太郎の馴染みの花香を抱えていた置屋の老舗であり、今でもその末裔がバーを経営している。
輪違屋の中にある金屏風には、新選組組長近藤勇直筆による漢詩が書かれてある。
中村屋で客としてはじめて座敷遊びをした正三が、芸者の倫子に誘われて輪違屋のバーに行った。
彼女を抱えていたのが輪違屋だったからだ。
遊び馴れしていない正三に経験を積ませるようにと、同席していたある常連の客から頼まれたのである。
輪違屋が置屋の老舗なら、角屋が揚屋の銘舗だ。
芸者や舞妓を抱えるのが置屋なら、置屋から芸妓を呼んで遊ぶのが揚屋である。
幕末の頃の角屋には、倒幕派の人間も、佐幕派の人間も出入りしていたが、只一件を除いて揉め事は一切なかったらしい。
その只一件の揉め事の張本人が芹沢鴨だ。
新選組の幹部による角屋での飲み会の席上で芹沢鴨が大暴れした。
その夜、近藤勇、土方歳三、沖田総司らによって、愛人のお梅と共に斬り殺されてしまう。
輪違屋のバーで一緒に飲んでいた正三を倫子が角屋に誘い、そこで、二人は結ばれた。
正三と倫子の馴初めを知らない恵美子の身に、大晦日の夜に何が起こったのか、倫子には手に取るようにわかったが、それ以上追求することは差し控えた。
母親である前に同じ芸者だったことからくる惻隠の情の表われであったのだろう。