(その一)男の闘い

『このまま後に引き下がるわけにいかへん!』
恵美子の態度に疑問を抱いた聡の彼女への想いは、その瞬間(とき)から憎悪のエネルギーに方向変換していたが、当の本人はそのことに気づいていなかった。
恋愛関係にある男女の愛憎劇はお決まりのコースを必ず歩むようだ。
それが片思いであろうが、相思相愛であろうが、辿る道は決まっている。
恵美子の藤堂頼賢に対する想いは憎悪のエネルギーから愛しさのエネルギーに方向変換したが、聡の恵美子に対する想いは愛しさのエネルギーから憎悪のエネルギーに変わっていた。
男女の三角関係の方程式だ。
常に悪循環のコースを取る、それが男女の愛憎劇だ。
中国の韓非子の「性悪説」が注目を浴びる時代の所以だが、偽善の孔子の「性善説」よりまだましである。
韓非子は所詮部分観の一重の錯覚をしているが二重の錯覚はしていないのに対して、孔子は二重の錯覚をしているからお粗末である。
世の人間はそんな孔子を評価する。
世の人間はそんなアリストテレスを評価する。
聡はいま明らかに性悪説に陥っていた。
悪循環に嵌り込んでいるわけである。
1月31日、藤堂頼賢に下鴨神社「糺の森」での面談を申し入れた件で恵美子から楔を打ちこまれ、一度は諦めかけたが、憎悪のエネルギーで充満している身体を抑えるのは不可能に近い。
聡は、矛先を藤堂頼賢一本に絞った。
『当初の予定通り、藤堂頼賢に会うぞ!』
覚悟を決めると軛が解けて、却って想わぬ力が出る。
潜在能力を100%発揮できないのは人間だけで、他の生きものは自己の潜在能力を100%発揮して生きている。
彼らは本音だけで生きているからだ。
人間だけが本音と建前で生きているからだ。
10%しか潜在能力を発揮していない人間は、本音10%、つまり、建前90%の人生を送っているからだが、本人は90%の建前を本音と勘違いしているのだから、思い通りの人生を送れるわけがない。
藤堂頼賢という青年は、そもそも軛などない生来の本音人間だが、聡は努力で潜在能力を高めてきた青年である。
聡にどれだけの軛が解けているのか、天才と秀才の闘いはいま始まろうとしていた。