(その一)一難去ってまた一難

ふたりが平八茶屋を出た時は夕方の5時過ぎで、北山の大文字がうっすらと見えていたが、歩いて出町川端の交差点に差し掛かった時には、四方の山々は既に闇の中に包まれていた。
「うちは、これから座敷があるさかい、ここで別れまひょ」
恵美子の方から切り出すのもこれがはじめてだ。
藤堂頼賢は無言で頷いていたが、ふたりの間に数メートルの空間が生じた時、彼は聞きとり難いほどの囁き声で言い残した。
「お前の兄貴と1月31日に下鴨神社で会うことになってるんや・・・」
恵美子は胸の中で絶叫していたが、声には出さず何気なく反応した。
「なんでうちのお兄さんとどすか?」
藤堂頼賢の背中が強い意志のオーラを発していて、『何も聞くな!』と言っているように思った。
以前の彼女であれば、藤堂頼賢の独断的な態度に嫌悪感を抱いていたのだが、今は信頼感に変貌していたから、頼もしささえ感じるのだ。
自己の想いの変化で相手に対する感情も変化する、所詮は、独り芝居に過ぎないのに、相手の態度で一喜一憂する人間という動物は厄介な代物である。
藤堂頼賢の言葉で、今度は兄の聡に嫌悪感を持つ始末だ。
生来警戒心の強い恵美子だけに、これだけは聞いておかなければならないことがあった。
「藤堂はんからの申し入れどすか?それとも?」
ふたりの間の距離は既に20メートル以上に達していたが、藤堂頼賢は聞こえていたらしく、背中で返事をしてきた。
恵美子の方を振り向くことはなく、彼の背中から発するオーラが返事をしているようだった。
『聡兄さんからの申し入れやったんやわ!』
恵美子は上賀茂神社での一件を知らないだけに、聡に惹起した不埒な想いを想起した。
『聡兄さんは、まだ四年前のことを引き摺ってはんのやろか?』
恵美子は思い出した。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んだ。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
自分の叫び声で聡は目が覚めた。
『ああ!夢やったんや!』
聡はあの出来事を夢だと思っているが、恵美子にとっては現実の出来事だったのである。
夢と現実の間に境界線を引くのは殆ど不可能だ。
一方が現実の出来事だと思っていても、片方が夢と思っていたら、それは所詮夢の出来事だ。
両方が現実だと思わない限り、それは、所詮夢物語だ。
両方が現実だと思う可能性は極めて低い。
世の中の出来事の99.9999%は夢物語に過ぎない所以がここにある。
オス社会のメスは実に生き難いのだが、それが女にとっては救いだった。
白を切り通すことが最大の自己防衛になる真理だ。
『1月31日迄に決着をつけとかんと・・・』
恵美子は新たな障害に立ち向かわなければならなかった。
『一難去って、また一難やわ!』