(その一)生きものの証明

去年の11月22日の牛祭りの日に二人が交わした愛が真実の愛であったのだ。
鮭が自分の誕生した場所に帰って子供を産む帰巣本能を持つように、その記念すべき場所に二人は本能的に導かれたのである。
真のセックスに踏むべき段階があるように、真の愛にも踏むべき段階がある。
真のセックスは行為そのものにあるのではなく、前戯と後戯にあることを殆どの人間が理解していない。
その理由は、人間の本質が決まってしまう七歳までに、自然の摂理を身を以って体験できなかったからである。
その間に、親や先生や宗教者によって人間社会の勝手な決まりや考え方を、自己の信念として植え付けられたため、自然の摂理を身を以って体験する唯一の機会を失ったからである。
自然の摂理を身を以って体験する機会を失った者は、愛する能力を失ったことと同じなのだ。
産まれた赤ん坊を母親から離して育てると、その赤ん坊は愛することができない人間になる。
他の動物でも、他の植物でも、他の鉱物でも同じことが言える。
自然社会では唯一絶対である種の保存本能が、人間社会では愛という形に変わっているだけである。
愛は人間だけにあるものだと、人間は高を括っているが、実のところは、人間だけに愛がない。
ただ、ある条件が整えば、人間にも愛が生まれる。
その条件とは、自然の摂理を身を以って体験した時だが、歳を重ねる毎に自然の摂理を身を以って体験することは困難になる。
そうすると、愛とはまったく無縁な人生を生きることになるのだが、本人はまるでそんな自覚がない。
年寄りほど頑固になる所以がここにある。
七歳までに親や先生や宗教者によって植え付けられた人間社会の勝手な決まりや考え方を自己の信念として勘違いしているのだ。
そんな人間には、愛の何たるかなどわかる筈もないのだが、本人にはまったく自覚がない。
人間の殆どがこういった一生を送る。
男女愛、家族愛、社会や会社に対する責任愛、国家への奉仕愛といった他者への愛は、人間にはある条件を除いて殆ど不可能だ。
極めて確率の低い条件下でやっと可能になる。
恵美子と藤堂頼賢の間にその愛が今生まれようとしている。
愛し合うとはそういう意味だ。
抱擁するとはそういう意味だ。
情けを交わすとはそういう意味だ。
その瞬間(とき)、生きとし生けるものは至福の境地になれる。
それが、生きものの証明だ。
これから「個人の時代」になる人間社会に求められる絶対要件である。
恵美子も藤堂頼賢も愛する能力を持った数少ない人間の一人だったことを、いみじくも証明したのである。
去年の牛祭りの日に同じ場所で情けを交わしたふたりは抱擁し合ったが、情けを交わすことはもはやなかった。
恵美子は真の愛を藤堂頼賢の中に観た。
言葉などまったく不要だ。
ふたりの存在がそのことを証明していた。
川のせせらぎを至福の境地で聞いていた去年の鴨川と打って変わって、今日の鴨川には雪が舞っていた。