(その一)「時間」という名の汽車

「そんなひと、うち知りまへん!」
恵美子は白を切った。
二十歳過ぎの女が返答に窮したら、げろを吐くのが一般だが、狡猾い大人の世界なら、白を切るのが常套手段だ。
戦後の数ある疑獄事件や政治スキャンダルで国会に喚問された証人は、必ずと言っていいほど白を切る。
国会に喚問された証人は偽証罪を問われる大きな責任を持たされるから、迂闊に嘘を付けないのに、必ず、白を切る。
その十八番の台詞が、「・・・・知りません」だ。
ローキード事件では、「・・・・記憶にございません」という新妙手が生まれた。
要するに、白を切るわけである。
証人が白を切ったら、証人の背景には黒幕が必ずいる。
証人がげろを吐くぐらいなら、仮に黒幕が存在したとしても、大物の黒幕では決してない。
『この子の黒幕は一体誰やろか・・・?』
嘗ての自分の黒幕だった男の縁者が、まさか自分の娘と関わっているとは、さすがの倫子も読み取ることはできなかった。
恵美子にとっては、すべては1月15日に掛かっていたから、『今、ここ』でどんな問題が起きようとも、動くことは断じてできない状況にあった。
『今、ここ』を動くことは、左右に仮に微動しようが、将又大きく動こうが、谷底に墜落することに変わりはなかった。
谷底に墜落しないためには、『今、ここ』を動くことは絶対に許されない。
「・・・・・・・・」
倫子は黙っていた。
相手に何かを要求している合図である。
「そやさかい、もうちょびっと・・・て言うたやないどすか!」
「・・・・・・・そうどすな、ほんならそれまで、あんたの好きなようにしなはれ」
倫子は受話器を下ろしたが、何らかのメッセージを恵美子に送れたという満足感は持った。
倫子からのメッセージを恵美子がどう受け留めたかを推し計るのは、本人しかできない。
『おかあはんは、なんで藤堂はんの名前を出しはったんやろか?』
その程度の疑問なら誰でも思いつくが、父・正三との絡みまで展開するには、更なる修羅場の経験が恵美子には必要であった。
況してや、それが自分たち兄妹の出自に関わってくるとなると・・・。
しかし、人それぞれの想いを映した過去・現在・未来という景色とは裏腹に、時間は淡々且つ粛々とその歩みを刻んで行くのだ。
恵美子という過去・現在・未来という光景。
聡という過去・現在・未来という光景。
藤堂頼賢という過去・現在・未来という光景。
それぞれの光景は、時には絡み、時には離れるが、時間という名の汽車は、そんな光景とは一切関わりなく、刻々と進んで行くのである。