(その一)勝者と敗者

藤堂頼賢に完全に出し抜かれた聡は、敗北感を味わっていたが、爽快感も味わった。
単なる約束事なら、相手側に完全な否があることは明白だが、大袈裟に言えば、これは形態を変えた決闘である。
厳流島の決闘で、約束時間にわざと遅れて勝利した宮本武蔵が卑怯だと言えないし、遅れてきた敵の術中に嵌って敗北し、命を落とした佐々木小次郎が愚かだとも言えない。
それぞれのやり方であって、正々堂々もないし卑怯もない。
勝った者と負けた者がいただけである。
何れも勝者とある意味では言えるだろう。
敗者は第三者だと言えるかも知れない。
『今、ここ』を生きた者は常に勝者であり、『今、ここ』を生きていない者は常に敗者なのかも知れない。
そういう意味では、宮本武蔵も佐々木小次郎も『今、ここ』を生きた結果、生き残った者と死んで行った者がいただけで、両者とも勝者であったに違いない。
厳流島の決闘を歴史で見た者、歴史で聞いた者、歴史で匂った者、歴史で味わった者、歴史で触った者が真の敗者なのだ。
何故ならば、彼らは身体全体で経験していないからである。
厳流島の決闘を身体全体で経験した宮本武蔵と佐々木小次郎が真の勝者なのである。
聡は藤堂頼賢に敗北したと思ったが、藤堂頼賢に対する敵意は完全に消滅してしまった。
自分の気持ちを本来なら恵美子に先ず伝えるはずだが、彼は、服部崇に伝えたいと思ったのが、その証左だと思った。
「もしもし、服部ですが・・・」
電話の向こう側の服部崇の怪訝な表情が想像できた。
「畑や!畑聡や!」
聡は敢えて不遜な口調で言った。
「おお!畑か!?」
驚いている様子が手に取るようにわかる。
「お前、もう自分の役目は終わったと思うてんのと違うか?」
「・・・・・・・・」
黙秘権を行使しているらしい。
「こんどは、俺の手先になってもらおか・・・」
「・・・・・・何をせえ言うねん?」
受話器の向こうの相手は観念したらしい。
「第二ラウンドは、こちらから指定させてもらうで・・・」
聡は大きく深呼吸をしてから、最後にゆっくりと吸った息を吐き出した。
「1月31日午後5時、下鴨神社の『糺すの森』で待ってるわ!」
「・・・・・・・・ピ!ピ!ピ!・・・」
黙秘権行使終了の合図だった。
東山の家に帰ると、母親の倫子が玄関に出てきて、いつもの高飛車な口調で話しだした。
「輪違屋に行ったそうどすな?」
見透かしているのに、蒲魚ぶる。
魚蒲ぶって、見透かせないでいる。
『どっちなんや!?』
聡は心の中で叫んでいた。
『自分の方から切り出さへん限り、そこで尻切れ蜻蛉になってしまうんや!』
芸者の極みの太夫にまで上りつめた人間だけが持ち合わせている一種の体質である。
常に受身の姿勢なのだ。
受身の達人は悟った人間よりも上だ。
悟った人間は迷いに再び落ちることは多々あるが、受身の達人は転げ落ちることは絶対にない。
太夫や花魁が水商売でありながら、従五位や正五位の称号をお上から受けるのは、その完璧なまでの受容性のゆえである。
征夷大将軍と同じ位か、若しくは、それ以上の地位にいるのは、この世的成功の限界が垣間見える証でもある。
『最近、帰ってけえへんから、ちょっと様子見に行っただけや・・・』
倫子は肯きながらも、更に訊いてきた。
「あの子、体調のことは何も言うてはりまへんどしたか?」
聡は必死に身体を支えた。
微妙な身体の動きで、心の中を読み取られるからだ。
『恵美子が妊娠してること、もう知ってるんかもしれへん・・・』
軽く息を吐いてから、返事をした。
「いや!そんな話はぜんぜんなかったわ!」
「あぁ、そうどすか!」
聡が玄関で靴をまだ脱いでいないのに、倫子はさっさと奥へ入ってしまった。
『ここにも勝者がいるわ!』
中国の四面楚歌の話を思い出しながら呟いた。