(その一)第一ラウンド

聡は、上賀茂神社の境外にある競馬会神事(くらべうまえしんじ)の馬場に午後6時前に着いたが、藤堂頼賢らしき大男が既に芝生の広場で仁王立ちしていた。
いざという場合に備えて、聡は兄の亨から車を借りて上賀茂神社までやって来た。
競馬会神事(くらべうまえしんじ)の馬場の前にある有料駐車場に入ろうとした時、右手にその姿を見つけたのである。
その巨大な姿に先ず圧倒された。
人間の五感の主人は視覚、つまり、目だ。
先ず、目で敵を捕らえる。
目での捕らえ方にも法則がある。
先ず、一番興味のある部分を見る、そして、二番目、三番目・・・と視覚の焦点を移していき、最後に全体を見て、自分との比較をする。
部分観の間は、自分との比較はできない。
全体観で以ってはじめて比較が可能になって全体感になる。
ところが、聡が藤堂頼賢らしき大男を視覚に捕らえた最初が全体感だったことに気づいた途端、脳裏に焼きつけられた恐怖感が彼の全身を走った。
京都大学で哲学を学んでいるから起こった現象である。
凡人間での視覚機能の発揮は、部分観から始まり、全体観で終わり、その後に全体感に至る、と学んだのに、逆現象が起こったからである。
何れか一方、若しくは、両方に非凡人がいる証明なのだ。
聡は一呼吸置くことにして、車の中で目を瞑った。
兄の亨から借りた車で今出川通りに出て、河原町通りから賀茂川沿いの道に入ろうと、先ず東山通りを百万遍まで上った。
右手に母校の京都大学が見え、一昨日、服部崇と哲学について話したことを思い出したことで、高校3年生の夏の出来事をも思い出した。
高校の夜学に通いながら、舞妓の稽古事をしていた妹の恵美子はまだ高校1年の16才だった。
聡が学校を早引きして家に帰ったら、妹の恵美子が稽古を終えて、庭先で汗の掻いた身体を行水で流していた光景を見た。
傍には母親の倫子もいたので、咄嗟に木塀の陰に隠れた。
木製のたらいは深目の所為で、恵美子の秘部は露でないが、彼女のほぼ全裸の姿が太陽の日差しを受けて輝いている。
16才とは思えない日本人離れした熟れた容姿と小麦色の肌が、夏の太陽で更に色気を醸し出している。
生唾を飲んだ聡は吾を忘れてしまった。
爾来、恵美子を妹と思えなくなったのである。
青い恋は水の情念だが、赤い恋は火の情念だ。
水の情念は時の経過と共に下っていくが、火の情念は歳と共に更に燃え上がっていく。
聡の恵美子への想いが火の情念と化したのはまさに偶然の産物であり、誰も責められない。
ある日、聡の火が燃え上がった。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んだ。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
自分の叫び声で聡は目が覚めた。
『ああ!夢やったんや!』
悪夢であり、快楽夢でもあったその夜以来、聡はすべての想いを封印して、恵美子に接するように努力した。
内なる想いを御することは土台むりだが、外なる態度を支配することは可能だ。
聡の努力の甲斐あって、一時、二人の間に生まれかけたぎくしゃくも、自然に消えていった。
聡の態度に違和感を持っていた恵美子の態度も、すぐに正常に戻っていった。
『あれから、4年が経ったんか!』
正常な自分が感慨に耽る一方、異常な自分が恵美子の裸体の想いに耽っている、そんな分裂した真只中で、彼は闘争心を掻き立てた。
『よっしゃ!いこか!』
車から降りた聡は、藤堂頼賢に向かって一直線に進んでいった。
馬場に立っている藤堂頼賢を遠くから眺めていた時は、その全貌だけを見ていたが、近づくに連れて、顔の輪郭がはっきりと聡の視覚に捕えられてきた。
『服部が言うてたように、えらい男前やな!』
相手に感心する自分がいることで、心にゆとりがあることを自覚できた聡の足取りは、ますます速く、且つ、力強くなっていった。
「藤堂って、お前か?」
聡は、勢いに乗って、口調も荒げてしまったことを少々後悔した。
「畑聡さんですか?」
相手の大男は逆におどおどしているようだ。
「藤堂頼賢さんに言われて来たんですが・・・一言だけ言ってこいと言われました・・・」
聡が拍子抜けしていると、大男は頭を掻き、口をもごもごしながら言い出した。
「『さっきから、よう観察させてもろうた』、とだけです」
聡は頭の回転に自信を持っているだけに、瞬時の反射神経を発揮して、辺り一帯を見渡したが、余韻の熱エネルギーは、そこにはもう一切残っていなかった。